korenannan’s blog

関東地方某県に住んでいます。日々思ったことを書きます。時々放ったらかしにして期間が空くことがあります

他人のヘルプを受けられるのは一つの才能だった

 寒い。これが冬だ、といった感じ。

 

 コロナのことがあって寒くても時々換気が必要。

 

 父は言う、寒いから換気は俺のいないときにやれ。

 

 わがままだ。私も言いたい放題したい。そっちかよ。

 

 

 

     今週のお題「感謝したいこと」

 大学生時代のことを思い出す。いろいろな事情で自分はボロボロだった。黒板の字すらまともに読めないような状態だった。

 

 そんな状態でもなんとか4年生になって研究室に入った。退学や休学という選択肢はなかった。辞めても居場所はない。そこでさらにぶっ壊れた。担当の教授に泣きつき自分のできそうな課題を与えてもらって何とか卒業できた。

 

 今考えるとそもそも理系の学部に行ったことがそもそも間違っていた。100Mすら走れないのにマラソンを走ろうとしたようなものだ。今考えると正気の沙汰ではないが当時は本気だった。つまり本当の狂気だ。

 

 とにかく教授のおかげでやることと居場所が見つかってとりあえず一息つけた。にもかかわらず自分は不満タラタラだった。まわりはあきれていた。

 

 そこからさらに通院したりいろいろなことがありました。

 

 

 それをへて今思うことは:

 

 まずは自分の欲求をはっきりさせないといけない。はっきりさせられれば、なにをすればいいのかわかるし、はっきりしていれば動いた結果欲求がかなわなくても不満タラタラにはならない。

 

 それにはそれ以前の準備がいる。自分の快不快の感情を感じ取ることができて、それをあらわしていいという環境がないといけない。自分の意見を言うことが身の危険につながるような状態では、自分にとってのいいことが自らを危険にさらす悪いことになってしまう。

 

 そういった危険な状況で身を守るには真面目という鎧でガチガチにして他人の目から身を守るしかない。他人から見てのいいことで身を守る。子供のころの自分は無意識にそう思っていたようです。(今になっての解釈です)

 

 自分のやりたいことやどうして欲しいのかをはっきりさせることができて、はじめて他人の助けを受けることができるようになる。そういうことでした。

 

 他人の親切がちゃんと通るようになると、感謝ができる身体になる。理屈でなくて身体の問題だった。それは他人との手間暇のかかる関わり合いによってできあがる。

 

 もちろんこれは他の人にとってはただの理屈で、誰かの役に立つようなものではないのかもしれません。

(自分はかなり特殊な環境にいたようだ、と最近うっすらと気がつくようになりました)

 

 かなりたどたどしい文章ですが今週のお題で思ったことを書いてみました。

 

       まとめ

 いろいろな人とかかわり、不満を言いたい放題し、セラピーなどを受け、20年ほどかかってある程度感謝できるようになりました。言いたい放題って意外と大事だ。なぜか「時計じかけのオレンジ」という作品を思い出しました。