曇り。寒さはそれほどではない。
夢を見た
目の前に生まれたばかりの赤ん坊がいる。なんだこりゃ、まるで猿ではないか。ちゃんと生きていけるのだろうか?
こちらが笑いかけたら反応して笑い返してきた。これは大丈夫だと思う。(終)
思ったこと
また思い出す。学生時代にボロボロになったあと、病院に行ったり健康法を試したりしました。
気功を習ったこともありますが、かえって症状がひどくなったので止めました。重い悩み事を抱えた人は気功や瞑想はやめたほうがいいと書いている本もありました。気がおかしなところに行ってしまい、文字通りの気違いになってしまう危険があるそうです。詳しくは知りませんが偏差や禅病やみというそうです。
そんなこんなであれこれ試して、いくらかましになった今思うことは:
勉強でも健康法でも効果が出るためにははっきりと必要とされる前提がある。それがないうちはまったく効果が出ない。
ということです。皆にとっては当然のことで気づかないようなことでもトラブルを抱えた人間にとってはその当たり前が欠落していて引っかかってしまう。
その当たり前を得るためにジタバタした。俺にもその当たり前をくれよ、といった感じです。他人には何をやっているのかまったく分からない。
それとは別に学問が高度になっていけばいくほどそれを考えた人間のイカレ具合があがっていくというのも気づきました。
数学でも国語でも最初は実際に手に触れて数えることができたりしますが、そのうちに抽象度がどんどんあがっていき、手に負えなくなります。
そういう人たちの伝記を読むとトラブルを起こしまくったりアイデアがぶっ飛びすぎていて同業者からも理解されなかったり。
飲んだくれて借金して他人にたかって生活が苦しい、とか書いていたり。クーデターを起こそうとして捕まったり、貴族と決闘して20代で亡くなったり。
そういった”イカれた”人間の脳みその中を何の下準備もせずにのぞかされるのってどうなのよ。まったくいい迷惑ですよ、と思ってみたりします。こんなの異端の意見ですが。
そのことに気づいてからずいぶん気持ちが楽になりました。その人たちが言っている理屈を理解できたわけではないですが。きっかけは「栄光なき天才たち」という漫画を読んだことでした。(数学者ガロワの話)
あと、テストでいい点をとった人間が全員その科目を理解できているわけではない、ということにも気づきました。ただ要領がよかっただけの人もいます。処世術というやつですか。私自身も耳が痛いです。そういう人はいい点を取った科目に何の興味も責任?もありません。そこに気づかないと”勘違い”して適性のない方向に進路をとったりします。まさに私でした。
今週のお題「自分にご褒美」
上で書いた酒飲んで借金して生活苦しい、という人たちのことを若いころは「ふん、自業自得じゃねーか」と思ったりしましたが、今はやむにやまれずそうなるべくしてそうなった。というしかないところもある、と思っています。
親や環境や社会や文化や食糧事情、そういった個人よりもはるかに大きくて力の強いものに巻き込まれてそうなった。”業”とでもいうのだろうか。
そういったものにあらがうのには人間は弱く人生は短すぎる。むしろ何とかしようと努力した結果があの人生なのかもしれない、とも思う。その環境で自分の生を貫いた結果。
だから、自分やまわりの人にはもっと優しくしよう。たまにはご褒美を上げよう。
また、やや強引にお題を回収してしまった。