korenannan’s blog

関東地方某県に住んでいます。日々思ったことを書きます。時々放ったらかしにして期間が空くことがあります

言い切られると反論はほぼ不可能

 晴れ。寒い。

 

 3が日は今日で終了。ほっとする。

 

 

        思ったこと

 また思い出す。(自分の家族の問題についてしつこく考えています。この文章はそれを整理するための個人的な意見です。というか妄想に近いです)

 

 子供のころなんで母や母の入信していた教団から抜け出すのが困難だったのか? 

 

 どうも言葉の問題のような気がする。

 

 母やそのまわりにいた人はよく断定的な物言いをしていた。「これが正解だ」という風に。

 

 言葉というのは相手とコミュニケーションをするためにある。言い切られてしまうとコミュニケーションができない。そこで終わってしまう。そもそも理屈の世界のことなので何とでもいえる。それだけでは何とも判断はできない。

 

 言葉はそういう風にできていた。そこに気づかなかった。言われた時点で何か正しいものがあるという風に受け取ってしまっていた。そこから苦しい正しいもの探しの旅が始まってしまう。(あるいは彼らよりも”より正しい”もの探し。基本的には彼らのアイデアの上にあることには変わらない)それには本当に苦労させられた。

 

 前提を疑え。そういうことだった。それがいかに大変なことか。

 

 それに相手がコミュニケーションのルールを守る気がなかったら、交流はできない。

 

 本来?はその言ったことについてどうなのか検証することが目的で、ゴールではなくスタートのはずだ。でも、言い切ってしまったらそこで終わり。それを受け入れるか否定するかのどちらかしかない。そうか単純な力関係の問題だったのか。彼らは我々は物分かりがいいという風に話をしていたがあれは暴力だった。ゴリ押しってやつだ。子供にそんなことをするなんて残酷だ。

 

 何かを言いきってそれに都合の良い説明ができそうな情報だけ集める。答えが先に出てしまっている。理性はあまり働いていない。コンピューターが得意そうなやり方。あれ、コンピューターには理性はないのか?

 

 誰かがくれた答えに依存している。最近よくある依存の問題だった? 答え自体は疑わない。理性・良心・自立などの問題のような気がする。依存している人は発言の内容やそれがもたらす影響には無自覚なことが多い。ここらへんが機械と人間との差だったのだろうか。”答え”は個々人で探さないといけない? 正解ではなく良さ(善さ)を探す?

 

 さらに面倒なことに子供のころまわりにそういう人がいたということは、私も彼らの考え方がベースにあるということだ。覆すのは大変だ。最初は彼らの言語?を使わなければならなかった。ますます大変。皮肉なことにそうすることで彼らの考え方を強化することになりがちだ。彼らのアイデアの中で正解を探すことになってしまう。

 

 でもなんで離れられたんだ? 彼らの身振りや表情がなにかおかしいという、かすかな違和感と、ぜんそくなどのアレルギー症状が全力で警告してくれた?おかげだったのかもしれない。当時はつらかった。本当に死ぬかと思った。

 

 そうかあれはコミュニケーションでなく暴力だったのか。そういう一方的な言葉の使い方。

 

 暴力もコミュニケーションの手段という人もいるが、それはお互いに了解があった場合だけだ。つまり試合だ。ルールもある。

 

 一方的に吠えるのはコミュニケーションとはいわない。それだけでは単純な力関係しかものごとをはかる尺度がなくなってしまう。(あるいはどうやって相手をひっかけるかだ)そんな世界になってほしくない。

 

 

 そんなことを考えた。