晴れ。風が強い。
暖冬だと言ったり、しばらくはすごく寒いと言ったり
北極上空の寒気がとかシベリア高気圧がどうだとか
そういった情報に振り回されている。
コンピュータの解析結果をそのまま出しているのだろうか。
それに地球全体の話をされても困る。
それで混乱している。正確に、ではなくざっくりとシンプルな情報のほうが助かる?
私は直近のことだけでいいや。それ以上は混乱するだけ。
夢を見た
電話がかかってきたので受ける。相手は女性でこっちを無視してずっとしゃべり続けている。ちょっと、こっちの言うこと聞いてます?
思ったこと
今年は寒い。自分が小学生だった頃にはいくら寒くても体育の時間に体操服の上にジャージを着ることは許されなかった。そのことを思い出した。いや小学生の頃はジャージそのものがなかったか。中学でもダメで高校生になってやっと着ることができた。
なんでだったのだろう。いやたぶん理由なんてなかったのだろうけど。体育の時間は大変だったなあ、と思い返す。自分はガリガリにやせていたので文字通り寒風が骨身にしみた。
なにかがあるとすれば鍛えるという精神論(という名のチキンレース?)だったのかもしれないけれど、それだったらもっとちゃんとケアしなければいけない。滝行とかの修行だってちゃんと導師がいて面倒をみてくれている。一人の先生が40人も面倒見るとか無茶だ。それに滝行は希望者だけだ。たとえが極端か。
いろんな都合がごちゃ混ぜになっている。教師や学校の都合、こちらの都合。さっきの天気予報の話ではないけど複雑でごちゃまぜの情報をそのまま出してきても困るだけだ。自分の近辺の都合に絞ろう。
なぜおかしいと言えなかったのか。あの頃はすでに抱えきれないほどのトラブルがあった。言うなんて考えも及ばなかった。というか言った場合のリスクについてはあり余るほどの情報を持っていた。
いろいろ考えてなんとか実用的で単純な答え?を出そうとしてみた。出てきた答えは、
粗末に扱われているのに慣れてしまった人間は他人を粗末に扱うのを何とも思わなくなる
だった。この答え通りの人間が私も含めてまわりに大量にいた。粗末に扱われたりひどい状況になると乖離ということが起きるらしい。自分のつらい悲しいという感覚と自分が切り離されてしまう。それでつらい状況を何とか耐えしのぐ。でもそれが当たり前になってしまうとつらい悲しいということがわからなくなってしまう。フィードバックが返ってこなくなる。
乖離が起きている間はいくら自分のトラウマについて話してもまったく回復しない。つらさが他人事?だ。自分も最近になってやっとそのことをうっすらと自覚し始めた。
乖離していることのやばさに気づくのに何十年もかかってしまった。気づいたらずいぶんと歳をとっていた。浦島太郎にでもなった気分だ。
その間は抜け殻だったのか? いやそんな単純ではないし、そんなことを言われても困るだけだ。ただ乖離している間は努力が積みあがらないということはあるていどある、といえる。
話を戻すとこの自分のつらさが他人事になってしまう、というのとさっきの話が自分の中でつながっていた。無理やりか。記憶が数珠繋ぎになって出てきた。自分の中の意味ある情報のつながり。他人が寒がっていても、もはや何とも思わない。それも乖離だということか。
学校みたいに大きなシステムの一部になってしまうと自分の責任でなくなってしまう? それも心無し?の理由。
(以前も書きましたが自分が考えるのに「その後の不自由」(上岡陽江・大嶋栄子著)という本がとても役に立ちました)
あと、チキンレースをやめられない理由としては、みんな努力が好きなんだなあ、ということか。だったら努力できる環境を整える必要があるのか。そんなのが子供時代に欲しかった。
また、思い出したことを右往左往しながら書いてみた。筋道があるようなないような。川で砂金を集めているみたいだ。自分のトラウマや記憶をザルで拾い上げている。他の人が読んでいて楽しいのだろうか?