晴れ。風が強い。桃の節句
3.11の圧倒的な存在感のせいでひな祭りが隅に追いやられてしまっている。
意識したことはなかったがひな祭りってそれなりに大事だったのだな。(家族のイベントとして。消費イベントとしてのひな祭りではなく)
なくてもそんなに困らないだろうけど、本当に必要なもの以外そぎ取ってしまうというのはよくないようだ。
それでは獣の生活と変わらない。余計なものに文化が宿る?らしい。
夢を見た
半島の先の駅にいる。そこから水族館に行くバスに乗ろうとしている。駅の売店に寄る。何かのイベントをしているらしく、電子マネー用のパスケースをくれた。
水族館行きのバス停は子供たちで大賑わいしている。ウンザリする。ほかのバスはないのかと運行案内図を見る。その間にバスが出てしまう。
すぐに次のバスが来る。ガラガラにすいている。ラッキーだ、と思って乗る。しかし運転手のアナウンスがおかしい。アナウンスの中に出てくるのは随分と遠い地名だ。
バスが発車する。途中の急坂から高速道路に入る。急坂というよりも高速道路の構造物を無理やり上っている。無茶をするな。
バスは高速道路を爆走する。とても気分がいい。水族館に行かなくてもこれでいいや。
バスは壁に突っ込んでいく。大丈夫なのかと思ったが、壁はスポンジやビニールのようなものだった。よく洗車する機械についているやつに似ている。
広い通りの十字路で降りる。もう夜になっている。道を歩く。温泉があるのかパイプから水蒸気が出ている。
しばらく歩くと、駅に出る。はじめにいた駅と同じ路線だ。遠くに来たと思ったがそうでもなかったらしい。また昼になっている。(終わり)
思ったこと
目が覚める。
これまでのことを、さらに思い出して考える。
昨日書いたブログの記事の中で、少数のスタッフが大量の人間を管理する、というようなことを書いた。
その在り方自体がそもそも無茶だ。「管理」とか人間が商品みたいだ。子供のころから巨大なシステムに巻き込まれていたのだ、と今更ながら気づく。
これを普通にくぐり抜けられた皆はすごいと思った。
昔お世話になったデイケアのスタッフでイギリスで勉強してきた人が、日本の精神医学は20~30年遅れている、と言っていた。その時はふ~んで済んでしまったが、のちにアメリカで勉強してきたセラピストのセッションを受けてわかった気がする。人間に対する理解の問題らしい。
もちろんうまくいっているものもある。以前お世話になった先生は薬のさじ加減が絶妙だった。それまで悩まされていた副作用が全部消えた。
話を元に戻す。教育などのシステムは海外から入ってきたもので自分たちで試行錯誤して一から作り上げたものではないので勝手がわからないのかもしれないと思った。
勝手がわからないので問題が起きても原因を探ることができない。そういうことなのではと無責任に思った。
原因を探るのにはその制度ができてきた過程や文脈を探らなければいけない、そういうことなのか。
自分はこういう風に同じことについて延々と考えるタイプらしいと書いていて気付いた。書いてみないとわからない。
この歳からそういったことの訓練を始めるのか。大変なことだ。
こういうものは他人が読んで面白いものではない。できあがった読み物ではないし頭の中の道筋をくどくどと見せられるのも苦痛だろうし。
自分は他人と仲良くする社交的なタイプではない。それにも気づいた。がっかりすると同時にホッとした。学生時代にこれに気づいてたらずいぶんと楽だっただろう。
こういうことは普通は10代のうちにやっておくことなのだろう。書いたものを読み返して何言ってんだろうと思うことも多い。でも必要っぽい。私の10代はトラブルだらけで忙しすぎてそれどころではなかった。他人の都合を生きていた。
とはいうもののこんな訳のわからない?ことを延々と考えるのってどうなの。他に面白いことないの? とも思う。
昔進路を決めるときに哲学とかではなくて役に立ちそうな理系を選んだのってそれなりにまともだったのだな。適性があるかどうかは別だったが。
それで選んだ結果精神を病んでしまい、その時に放棄した考えるという作業をやることになってしまった。訳が分からない。適性というか、業というか、バカは死ななきゃ治らない、というやつだろうか。この言葉は悲しいくらいの真理だった。すごくしみる。
自分にとって生きるとは自分なりにこの世界を理解することらしい。他人はそこまで根詰めて考えなくてもまったく問題なく生きていけるようだ。うらやましいというか謎だ。