曇り時々晴れ。
また室内干しに逆戻りだ。花粉の次は長雨。過酷な日本。
でも今はスペースの問題やプライバシーの問題で
はじめから室内干しだけという家庭も増えた。
外干しは贅沢なのか。それは困る。外に干してスッキリしたい。
思ったこと
「子どもの算数、なんでそうなる?」(谷口隆 著・岩波書店)という本を今読んでいる。(商品のリンクを貼ったほうが見栄えもいいし便利なのだが、リンク先の都合で表示されなくなったりして面倒なのでやめる。かかわる要素が増えると身動きがとりづらくなる。考えすぎか)
これを読んでいるうちになぜ自分が算数が苦手(数学ですらない)だったのか少しわかってきた。
それは背景の説明がなにもされていないからだ。はい、覚えてください、じゃ次に行きます。の繰り返しだ。
どういう必要があってこれが出てきたのか、とか、これは世の中の現象のなにを取り扱おうとしたのか、とかをちゃんとストーリーにして説明しなくてはいけない。
それがなくただ鵜吞みにしてまる覚えしていった結果、あるレベルから上には行けなくなった。と、思う。私のケースの話。
数式は別に真理ではない。ただの道具だ(たぶん)。道具の使い方とどういう場面で使うのか、その道具が作られた過程(これも大事だった)がわからないとどうしようもない。
それにしても言葉というのはただの説明で絶対でも何でもないというのは、かなり気持ちが悪い。どこまで突き詰めてもスッキリしないモヤモヤしたものが残る。言葉の限界は明確にあるということ? それに耐えられない人は学問向きではないのか。
話を元に戻す。数式などを(理解もせずに)必死になって覚えて、受験もなんとかかいくぐって、・・・で? と我に返ったときにガタガタになった。もっと早く気づきたかったがそんな余裕はない。忙しいのは罪、いや害悪だ。この本でも、暇、ヒマと散々出てくる。
どうせ機械がやってくれるからいいじゃん、という考え方もあるけど、ある程度当たりがつけられないと機械がミスをしたり、誰かにだまされても気づかない。
あと、数字や数式はシンプルすぎて違うものでも同じものと勘違いして混乱してしまう。解釈に失敗してつまずく、ということが頻繁にあったような気がする。ある人の本で”いとおかし”と書いてあるからって”糸”と”お菓子”とは何の関係もないといったような。これにかんしてはまだまだわからないことだらけだ。
今になって学生時代を思い出してみると、本当に学びが雑だったな、と思う。あきれる。ほかの皆はどうしてつまずかなかったのだろう。とても不思議だ。中には破綻していることに気づかないでそのままでいる人もいるのかもしれない。そっちのほうが怖い。
そんなことを考えた。
今週のお題「575」
今週のお題について考えてみる。一句詠んでください、と言われてその場で詠める人ってすごいなと思う。はい、今ここで面白いことを言ってください、ボケてくださいって言われてできるか、って話だ。たぶんある程度蓄積がないと難しい。
じゃあ、ボケの人はある程度ボケをためているのか? そっちもすごいな。ボケチャージ。(言ってみただけ。特に意味はない)
突っ込みよりもボケをためるほうが大変そう。門外漢なので知らんけど。