曇り。
これからは一転して雨らしい。
思ったこと
昨日も少し書いたが問題が多すぎると問題に対する切り口もわからない。
それどころか問題があることを自覚することすら困難になる。
ふと昔見たドキュメンタリーのことを思い出した。そこには問題がたくさんありすぎる例があった。(内容について触れますが相当ひどい話ですのでご注意を)
タイトルは「シリアルキラー・アイリーン」(ニック・ブルームフィールド監督)
アメリカの連続殺人犯(シリアルキラー)アイリーン・ウォーノスの生涯についてのドキュメンタリー映画。
この題材ではシャーリーズ・セロン主演の映画「モンスター」のほうが有名かもしれません。これは事件を題材にしたフィクションといったほうがいいかもしれませんが、見ていません。
このDVDを購入した理由はよくわかりません。確か秋葉原で買いました。(石丸電気だったか?)
とにかく何故か気になったので買いました。
で、見始めたのですが、しばらく経っての感想は、ひでえな、です。それと殺人犯本人がインタビューや裁判(本物の裁判の映像)で登場するのに戸惑いました。アメリカってどうなの。
育った環境がひどいという言葉ではとてもあらわしきれない。母・アルコール依存症で育児放棄(のちに蒸発)、父・精神疾患で入退院を繰り返す。引き取られた親戚に性的虐待を受ける、近所の子どもに妊娠させられる、など、これでもほんの一部です。
この出来事のうち一つだけが起きてあとは「普通の」家庭だったら、ひどいひどいと大騒ぎできると思うのですが、これだけたくさんあるとどういう理由なのかわからないけれど感覚がマヒしてそういう環境として受け入れてしまったりする。それは本人もまわりの人間もそうみたいだ。生きていくための知恵か?
本人もまわりの人間も問題を自覚していない。というかその余裕や受け皿となる考え方がない。環境に順応するとはそういうことか。その地域での当たり前?
問題が外から来るのでなく、問題の中に住んでいる。この違いか。問題に対する距離。
映画を思い出してそう思った。問題が分からなくなるとはこういうことらしい。でもわからなくなっても問題は確実に残る。難しい問題だ。
物語の終盤では長期間独房に収監されていて精神的におかしくなった(拘禁反応というのか)アイリーンがインタビュアーをしている監督に罵詈雑言を浴びせています。発言の内容はめちゃくちゃですが様々な不条理に対して一生懸命抵抗していたのではと今は感じます。(あくまで推測ですが) 当時はひどいとは感じたがそれ以上はわからなかった。
映画はアイリーンの死刑執行で幕を閉じるのですが、最後まで未消化で複雑なものをこれでもかと見させられました。これがドキュメンタリーの力か。きれいなお話にまとめようとしない監督の意地みたいなものを感じました。
これがわかるようになったというのはそれなりに賢くなっているのだな。でも全然足りない。
(もちろんですが殺人そのものは擁護できません。こんなこと当たり前すぎてあえて言うようなことではないけれど。殺人がダメというのが当たり前というのはそれなりに良い環境なのか)