晴れ。
蒸し暑いがそれなり。
もう暴力的な暑さではない。
空は秋だ。
夢を見た
教室にいる。大学の講義室のようなすり鉢状の部屋。腹の調子が悪い。
後ろの席の人間に、お前が臭うのはわかってるから、と言われる。
立ち上がって教室を出る。(終わり)
思ったこと
目が覚める。教室を出たのは言われたからというよりは、体調が悪いのに授業を受けている場合ではない、と思ったからだ。
でも、わかってるから、ってどういう意味だろう。配慮を伴った抗議のようでもあるし、気にするなと言っているようでもある。心の中の矛盾をそのままぶつけてきただけのようにも感じる。なによりも困っているときにこんなこと言われてもさらに困るだけだ。
でもさ、上にも書いたけれど具合が悪いのに授業受けている場合じゃないよ。
思い出す。主に高校時代、過敏性大腸に苦しめられてまさに夢の中のような状況になった。自身のことで精いっぱいでまわりを見る余裕はなかったが、まわりに迷惑をかけたのは事実だと思う。
夢の中のように逃げ場はなかったな。うちの中も大変だったし。外は外で私の顔を知っている母が入信している教団の信者がたくさんいて、見つかったら厄介だ。(彼らには善意からやったことでも他人が死ぬレベルの迷惑をこうむることだってあるのだぞ(それが罪の自覚だ)、と言いたい)
まわりの生徒も受験のプレッシャーでいっぱいいっぱいで余裕など全くなかった。
・・・ひでえな。本当にどうにもならない。本当に酷い。
だったらどうすればいいか、などといってジタバタする前に、酷いというこの状況を丸ごと理解して味わい尽くさなければいけなかった。
それができないと、あの時ああすればよかった、こうできたのではないか、とクドクド考え続けて苦しむことになる。
(”丸ごと”というのはとても大事だった。適当に・一部分だけではダメだった。丸ごと理解するのには時間がかかるし、それができるようになるためにそれなりに成長する必要がある)
どうにもならないよ。全く酷いな。夢のおかげでそれをしみじみと感じることができた。
ドツボの状態のときにじたばた動くな。身体と心を休めろ。そんな時にできることなどほとんどないのだから、楽しいことでもしておけ(むしろゲームでもしていろよ)、と当時の自分にアドバイスしたい。
記憶の中に出てきた人間は、自分もそうだけれど、まわりも全く余裕がないのが気になる。
これまで自分の問題を何とかするためにいろいろな本を読んだ。
子育て関係の本も何冊か読んだ、それで思ったことは子育てというのは大変に手間暇がかかるということだ。完全なフルタイムの仕事だ。しかも何人もの手が必要。
社会の要請で共働きの家庭が増えたけれど、そもそも働きながら子育てをすることそのものに大変な無理があるのではないか。
子どもが育つためにはまわりに暇な大人が大量に必要なのではと思うようになった。
お父さんもお母さんも子どもの近くにいる。それが理想なのでは?
子どもは大人の余裕を糧に育っていく?
大人には義務として余裕や暇を与えないといけない?
暇や余裕のある大人のほうが心や身体の中に知恵や自分の世界観というものをしっかりと持っている気がする。
大人に知恵や余裕がないと世代交代のたびに人間のスケールが小さくなっていって社会がじり貧になるのかもしれない。
”暇”なんてお金や数字と相性が悪そうだな。数字で何でも表現できると思うことのほうがおかしいのかもしれない。あらわそうとするならばかなりの工夫が必要。表現する側にも読み解く側にも。
もちろんこれは無責任な意見でもある。状況なんて人それぞれだし。ただ、自身の経験から知恵を取り出すとこんな感じになる。そういうことだ。