穏やかな天気。
それにしても昨晩は寝苦しい暑さだった。
あまりの気温の上下にもう感覚がついていけていない。
夏の疲れがたまっているせいなのか
真夏のように焼けるような暑さを感じるというよりも
ジリジリと蒸し焼きにされているよう。
調理の仕方が違うみたいだ。
思ったこと
またしつこく考える。これが自分の持っているものなのかも。 学力というのとは別の才能(才能なのか?)
以前のブログで対象と自分しかいなくなってズブズブに依存してしまうと、まわりが見えなる。そうなるといくら他人に迷惑をかけてもわからなくなるというようなことを書いた。
でも迷惑をかけてもわからなくなるのには別の理由もありそうだと、記憶を探ってみて思う。
それは目先の自分の損得しか考えない・瞬間的な見た目を整えることしか考えない、ということだ。それだけを考えていたら、過去に自分がやったことでいくら他人に迷惑がかかっても気にしなくなる。それどころかそのことで苦情を言われたら攻撃されていると思って反撃に出る。
その場その場の対応だけでものの流れというか文脈を考えなくなる。そう考えるとそういう人たちがその場で立派そうに見える・見てくれだけの言葉を使うのもわかる気がした。だけれども見た目は整えられるがそういう言葉には根拠・それに伴った内容がない。
そういった言葉は全体で考えた場合には何を言っているのかわからない。数十秒前に言ったことと矛盾したり関係ないことを平気で言う。言葉や態度をさっさと捨ててしまう。そのレベルだった。
文脈を考えて話したり行動するのってかなりの訓練が必要なのかもしれないな。文脈を考えるというのは動物やひどい環境に生きている人間には必要ない技能かもしれない。文脈を整合させようと考えて立ち止まってしまったらやられて死んでしまう。そうか、文脈というのは比較的安全な文明の栄えた国のやりかたなのか。
でもある程度皆がこうすればこうなる、という文脈を考えて生きることができる・する、という前提で社会のシステムは出来上がっているんじゃないのかな。そこを無視する人間があらわれると、まわりとトラブルが起きる。
苦労して作り上げたシステムがズルをしたり出し抜いたりする人間が現れることで崩壊していく、それなのか。
というか話し合おうとしたらいきなり銃で撃ってきた、とかそういうレベル? 想定外。インベーダーじゃん。
(身内を攻撃しているって気づけよ、と言いたい)
そのほかにも、彼らの子どもっぽさも気になる。「ぼく、悪くないもん」といった態度。それどころかそれを超えて、「私は素晴らしいことをしている」といった風に変わってきている。
自己欺瞞のレベルが上がっただけで全然素晴らしくない。言い訳が立派になっても相手に迷惑をかけたという事実は変わらない。
たとえて言えば自身が爆撃をした土地に行って、現地の人間に「爆撃されてよかったでしょ」というレベルの欺瞞。(あくまでたとえです)
そこまでずうずうしくなる前は少なくとも自分がどういう風に見えるか(たとえ実際にはそう思っていなくても)を考えて、そういうことは言わなかったり”過去の行い”を悔いるふりぐらいはしたと思うのだが。
そうか、そういうふりをする、ということで社会は回っていたのか。実際にどう思っているか、ではなかった。実際に思っていることだけしかなかったら、お互い「ぼく、悪くないもん」から先に進まなくなってしまう。
(そうなると物事は力関係のごり押しのみで進むことになるのでは? それって恨みを買いそうだ。潜在的な敵をたくさん増やすことになって結果的にはよくないのでは? これが長い目で見るということか。ここでも文脈が必要になる)
本音と建て前(というか方便)の使い分けができなくなった? これも訓練が必要? というかどうしてそういうことをするのかを一回真剣に考えて、その仕組みを身につけなければいけなかった。
本音だけだったらケンカになって終わり、ということも多いだろうしな。それだけだったら極端に言えば「ウー、ワンワン」と獣が吠えあっているのと変わらなくなってしまうし。
こんなところに知恵があったのか。なんか複雑だなあ。これが大人になるってこと(だったの)かもしれない。
”よそさん”に、やられ放題の記憶を探ったらこんなものが出てきた。その”よそさん”にも世話になっていたりするから話は複雑。性格がどんどん屈折していく。
ほかの誰かから見たら、何テキトーなことをくどくどと考えているんだ、と思われるかもしれないけれど、本に書いてあるような立派なことと、自身の頭の中で考えて世界を組み立てることとは全く別の行為だった。そこをおろそかにしてしまったら何歳になっても幼いままだ。
そんなことを考えた。