korenannan’s blog

関東地方某県に住んでいます。日々思ったことを書きます。時々放ったらかしにして期間が空くことがあります

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 晴れ。

 

 ますます寒い。

 

 一年中同じように動くというのはおかしいのでは、

 

 と洗濯物を干しながら思う。動きが鈍い。

 

 

 

 

 「神学・政治論」(上・下 スピノザ著 吉田量彦訳 光文社古典新訳文庫)をさらに読む。私はしつこい。読まれているかたは飽きてきたかもしれませんが。

 

 預言というのは万民に向かって説かれていたわけではなく、その当時その場にいた人間に対してのみ効果があるものだという。そしてそれは国や集団をまとめるためだけのもので個人の幸せとは何の関係もないとのこと。

 

 

 腑に落ちた。そうだよな。ピーピー・ギャアギャア文句言いながらついてくる集団をなんとかまとめなければならなかったわけだし。

 

 理詰めで納得する人間なんてほとんどいなかっただろうから、ああいう形で命令するしかなかったということか。

 

 あの当時は、世界といえば俺たちのいるところ、だから他の地域のことなんてはじめからカウントされていない。

 

 それをほかの時代の人間がありがたがったり他人に強要するのはおかしい、ということだろう。

 

 

 

 思う。言葉というのは強い。預言は突き刺さる。ああいうかたちで言われると逆らうことは大変に困難だ。それが言葉の力・正しさであり致命的な欠陥でもあるのだろう。実際にはないことまであるような気になってしまう。

 

 そこから抜け出すためには理性を鍛えて言われたことを丁寧に解きほぐすしかない。それができるレベルの人間は限られている。

 

 理性だけでなくメンタルや身体も鍛える必要がある。とセラピーをたくさん受けてきた自分は思う。肝が太い、とか肚が座っているとか。

 

 自分の子供時代を思い返す。母や母のいた教団にされたこと。理性も鍛えられてなく、身体も出来上がっていない子どもにそういったことをするのはやはりアウトだった。その大昔の考え方?から現代まで戻ってくるのに大変な苦労を要する。これまで散々書いた。

 

 やられた側はそれを何とかして解きほぐすしかない。

 

 自分は長い間あれは間違っていて皆それがわからないだけだ、と思っていたがどうもそうではないらしい。あれを本当のことと信じて生きている人もいる、ということを最近分かるようになってきた。本当に複雑だ。

 

 そういう人たちにとっては理性で解きほぐしたりすることは、何でそういうことをするんだ、と動揺したり、勝手にルールを変えるんじゃねえ、と怒ったりすることになる。たぶん。よくわからないけど。自分が悪霊が入った、とか散々言われたのはそういうわけか。こちらとしては迷惑をこうむったから抗議しただけだ。

 

 トラブルになっていない人間にとってはどうでもいい話で、なぜうまくいっているところを引っ掻き回すんだ、と思われたのかもしれない。ただ、もう少しまわりを見て気を遣え、と言いたい。

 

 

 それ以前に他人に迷惑をかけるな、とか、他人は自分とは全く違う世界を生きている、とかそういった基本的なことを教えることをしないで、ああいった大きな物語を教えるからトラブルになる。それは危険だ。と思った。預言があった当時でなく今現在を生きる人間としてはの話。

 

 

 なにくどくどと同じようなことを書いているんだ、と思われる方もいるかもしれません。でも、そのほうが健全な気がします。困難やトラブルなんて関係ないほうがいい。