晴れ。
洗濯物が干していても乾かない。
ここまでの低温は近年なかった気がする。
父が風邪気味なので母と病院に連れていく。
こういうご時世なので熱がある人間は地元の病院では診てもらえない。かかりつけの病院に母が電話で相談したら、うちでは診れないと言われた。教えてもらった駅前の大きな病院に行く。
(あらかじめ結果を言っておきますがPCR検査の結果は陰性でただの風邪でした)
病院に着くと発熱専用の受付へと案内されて待つことになった。すでに入り口から別だ。寒いが換気のために窓が開いている。
問診のあと検査専用のプレハブの建物に移動する。家族は受付で待つ。
外側から見る限り、思ったほど混んでいなかったが、検査には時間がかかった。別のルートからも検査が持ち込まれているのかもしれない。
検査の結果陰性(ただの風邪)という結果が出て風邪薬をもらって帰った。病院の滞在時間は3時間ほどだった。
病院のスタッフは驚くほど落ち着いて行動していた。頭が下がる、という言葉の入る余地がないほどだった。とにかく助かった。
うちに帰って食事。父を寝かせる。皮肉なことだが、うちは昔からこういうことには慣れている。
食事は帰りにコンビニで弁当を買った。こういうときはコンビニは本当に助かる。
病人がいるとやまのように洗濯物が出る。3回洗濯機を回す。たとえ少しでも洗っておかないと、不意の洗濯物が出て身動きがとれなくなる。乾くのにも時間がかかるし。
子どものころ、介護が必要な人が二人いたころは、洗濯機と乾燥機がフル回転だった。それを思い出した。
だけど、コンビニも含めて文明の利器は本当に便利で助かるけど、なにかが足りない気がする。楽になったはずなのにしんどいままだ。なんだろう。
足りないものはなにか? 人の手か。機械のお陰で楽にはなったが、メニューの選択なども含めて、すべて自分でコントロールしなければいけない。
人間だったら、その部分の負担や重荷を代わりに背負ってくれる。シェアしてくれる。そうか、そこは文明の利器にはできない。そういうことか。
日が明けて次の日になった。母は疲れて起きてこないので台所に立つ。湯を沸かして味噌汁を作る。あまりやったことはなくても、いつも見ていてだいたいわかっている。見るって大事なんだなと思う。
母も起きる。
父が起きてきたので調子を聞くと一言「悪い」と言う。なんのひねりも皮肉もない。これはかなり消耗している。
思う。これはちゃんと気分転換というか、流れを切らないと潰れるな。
日本人は繊細なので日常生活の時点で、すでにストレスや負荷が目一杯かかっているのではないか、と思う。(日本人が、じゃなくて私が、だろ)
だから時々ストップして、自分のやっていることから離れることが必要なのでは。
ことさらなことをやるのではなく、自分のやっていることを突き放してみて"あほくさ"と言う。それは大事だった。
気分転換になにかを詰め込むのではなく、ただ空っぽにする。
最近アウシュビッツから生還した人間の手記をいくつか読んでいますが、書いた人間は1年後くらいに、いずれも自死しています。
必要だったといえ、根を詰めて考えることが自分を追い詰めたのではないか。
進む、止まる、だけでなく、その流れそのものから時々抜ける。東洋人の知恵っぽいな。
うまく抜くことができれば煮え煮えにならないですむかも。そう思った。