曇り。寒い。
今年はずっとこんな感じか。
いろいろな要素が絡まって寒さがかなり堪える。
ブランキー・ジェット・シティの「冬のセーター」という曲が思い浮かぶ。
夢を見た
丘の上の住宅地を歩いている。横浜市によくあるようなやつだ。坂に家がたくさん建っている。
丘の稜線を歩く。途中に野球のスタジアムがある。中に入ると試合をやっている。点の取り合いの大味な試合だ。いわゆるバカ試合というやつ。
座席はバッティングセンターにありそうなベンチ。みなくつろいで観戦している。
外に出る。寺社の門前町のような通りを歩く(終わり)
思ったこと
父の看病がけっこう大変だ。母はいい加減ふてくされている。
昨夜父を寝かせるときに唐突に父に「ありがとう」と言われる。
父がこんなことを言うとは思わなかった。相当弱っているのか。
これまで、ありがとう、なんて言われたことがない。
大変だが、何かが"正常化"に向かっている気がする。
心配なのは、母が入信している教団の信者が、ポイント稼ぎのためにやってきて、うちの中の秩序をめちゃくちゃにしていくのではないかということだ。
いったいあれはなんなのだろう。親切心からやってきて、めちゃくちゃにして帰っていく。親切心を表に出してくるので苦情が言いづらい。
頼んでもいないのにやって来て、立ち直れないくらいにめちゃくちゃにして帰っていく。どこかの国に対して時々言われるコメントだ。
頼んでいない、というのがポイントのような気がする。他人には他人の事情がある。いいことだ、と思ったからって、それを無視してはいけない。
他人は自分の頭の中に住んでいるわけではない。それに人間は間違う。人間の認識能力には欠陥がある。他人をそれに巻き込んでしまう可能性を考える。
他人が頭の中に住んでいるというか、自分は絶対に正しい、と思ってしまったら、他人の尊厳や命は頭の中の理屈に過ぎなくなる。結果粗末に扱っても平気な顔をすることになる。だっていいことだと思ったんだもん、悪くないもん、という感じに。それでは困る。
そういうことではないか。
この世界や自分に対する理解がないこと。それには仏教的な知恵が必要なのかも。よくわからないけれどもそんな気がした。
人間の愚かさの取り扱いに失敗したということか? そういうものがおさまる考え方がない?
そうか、信仰では人間の愚かさのケアができない。そういうことだろうか。彼らは絶対に謝らないし反省もしない。
信仰は強くなるが、愚かさはそのまま残る。むしろそこも強化される。そういうことではないか。
以上、うちの中をめちゃくちゃにされた人間が思ったことでした。
どうしてこんなことを考えるんだろ?
というか、むしろこれまであったことを、考えて・まとめて・記録するのが自分の仕事のような気すらしてきた。
そうなのか?