korenannan’s blog

関東地方某県に住んでいます。日々思ったことを書きます。時々放ったらかしにして期間が空くことがあります

違和感について考えることで自分が感じている息苦しさに気づく

 晴れ。

 

 相変わらず寒い

 

 週の後半にまた雪の予報がある。

 

 以前は雪の予報があるとワクワクしたものだが今はうんざりするだけだ。

 

 

       夢を見た

 祖母の部屋にいる。私のほかには誰もいない。急に祖母はすでに亡くなっていることに気づく。この部屋はいったいどうなるのだろうと思う。(終わり)

 

 

      思ったこと

 また本を読む。「だれが沖縄を殺すのか」(ロバート・エルドリッヂ著 PHP研究所

 

 戦後の沖縄が抱えている問題について書かれた本。まだ読んでいる途中です。

 

 (今回は電子書籍電子書籍のいいところを一つ見つけた。それはメモを取り放題だということ)

 

 (この先、この本についての自分の意見をいろいろ書きます。かなり拙いです。問題の渦中にある人たちにとっては、勝手なことを言ってふざけんなコノヤロー、と思うかもしれませんが)

 

 

 私は沖縄の問題についてほとんど知らなかった。かろうじて基地の問題があるということだけだ。この本によると現地のマスコミは相当偏った報道をしているという。

 

 自分にとってはそれが意外だった。本土のマスコミが基地を押し付けていることを正当化するために偏向した報道をしているのかと思っていた。

 

 事態はもっと複雑らしい。様々な立場の人の様々な思惑が絡み合っている。沖縄のメディアは東日本大震災のとき米軍が行った「トモダチ作戦」にまで噛みついたそうだ。

 

 外側から問題を見れる人間からすれば確かにそれは変だ。でもそこまで熱心に”偏向”報道をするのであれば何か理由があるのではないかという気がする。

 

 

 この本は起きている物事を客観的に冷静に書いているように見える。でもなぜか猛烈な違和感を感じる。何故だろう。

 

 米軍は沖縄に対して基地内で職を提供したりとかなり貢献している。それは事実だ。それでもインベーダーであるという事実は変えようがないのではないか。

 

 いくら親切にしたからってそこは変わることがない。それは人間の心の道理だ。感情は理屈で割り切れない。その割り切れない部分が悲鳴のように偏向報道となって噴き出ている。そういうことではないか。

 

 (もちろんあくまでも私個人の勝手な解釈です)

 

 そこを自覚しないであれこれやろうとするからトラブルになる。

 

 無自覚に他人のテリトリーに侵入して好き勝手やっている。そのことで地元住民の静かな生活が脅かされている。それはたとえ親切であってもまずい。恨みを買う。そういうことか?

 

 やっている側にそのことに対する”罪の自覚”がほとんどない。だからそれに考えが及ぶことがない。

 

 ”良かれ”と思ってやったことがトラブルの種になっている。だから文句を言われる。それで、親切や善意でやっているのに何故だ。敬意や感謝の気持ちがない。などとなる。こういうことだろうか。

 

 実際には占拠して支配しているのに、フレンドリーにやってますよ、というスタンスをとっている。その無神経さや自己欺瞞に傷つけられているのでは。見た目が立派で親切だから苦情が言いづらい。(その前に圧倒的な力の差がある)

 

 見てくれを整えるだけではどうにもならないことがある。

 

 一度やってしまったらどんなに”いいこと”をしても取り返しがつかないことがある。

 

 それらについての自覚。

 

 

 腐った土台の上には立派な建物は立てられない、ということだろうか。でもまともな関係ってなんだろう。”それ以前”の話か?

 

 

 なんでこんなに熱くなっているんだ。自分のこれまでの経験や家庭内の状態にかなり似ている気がしたからだ。それはこれまでのブログで散々書いた。問題をDVの話としてとらえたのだろうか。

 

 

 沖縄の皆さん、勝手にシンパシー(エンパシーか)を感じてあれこれ言ってすみませんでした。

 

 また本の内容と直接関係ないところで突っ走ったような気もする。いろいろ考えが浮かぶのはいい本の証拠だということか。

 

 いくらシンパシーを感じても沖縄の問題は沖縄の問題だし、うちの問題はうちの問題だ。それぞれ固有のものがある。