曇り。
予報ではこれから雪らしい。
警報級などとテレビでは言っている。
最近は表現が大げさだ。
それだけ注意してくださいということなのだろうけれども。
映画の予告編のよう。大げさすぎて予告編でお腹いっぱいになる。
それで、もういいや、という気持ちになる。そういえば最近は映画を観ていないな。
夢を見た
学校の教室。久しぶりにテストの夢だ。なんの教科かは不明。
ボールペンで記入しているのに気づき、途中からシャープペンシルに変える。
どこかで、「この問題さあ」、と話している声がする。テスト中に堂々と相談するなよ、と思いながら、それでいいのでは、という気もする。理解することが目的なら相談しながらでOKなのでは?
気づくとタブレットを持っており、それで解答を記入している。まわりの皆もそうだ。
テストが終了する。あれ、問題用紙はどうやって回収するんだ? タブレットがネットでつながっているわけでもなさそうだし。まわりと話す。
先生が行きますのでそれまでタブレットの画面を紙の解答用紙で隠していてください、との指示。なんだかなあ。(終わり)
思ったこと
目が覚める。変な夢だったな。昭和生まれのおっさんである私は思い出す。子どものころはシャープペンシルですら使用禁止だったな。小学校はずっと鉛筆だったと思う。
鉛筆でなくなったのはいつからだったのだろう。
シャーペンも珍しかったけれども左利きも珍しかった。私も元々は左利きだったけれども、なぜか右で書くことを覚えた。まわりを見ても右手で書くのが当たり前だったからそういうものとして覚えたのか。
今は左利きの人がかなり増えた。それだけ教育に自由度が増えたのだろうか。
それともただ単に、そんなところはこだわるところではない、ということだろうか。自由とかいってしまうと先生ケアしなければいけない範囲が増えて大変そうだし。
また考える。ここ数日読んだ本から思い起こされたこと。結局は自分の問題に戻る。
注:今回(も)やや長くて話が錯綜しています。
親切なのか、それともただのポイント稼ぎなのか。
親切とポイント稼ぎの違いは? ポイント稼ぎは自分自身の得だけを考えている。ええ格好することだけを考える。よほどの極端なケースが起きない限り両者は重なっているように見える。けれど、実はだいぶん違うし、それが続くとなされた側が深刻なダメージを受ける。
ポイント稼ぎはどこかの誰かが言った”こうすべき”というものに(無批判に)のっとって行われている。自分の考えですらない。
だからなのか、自分がやったことで起きたことについて、なにも考えられない。たとえトラブルが起きたとしてもヘラヘラと笑うか、自分の理屈を当然のようにベラベラしゃべるか、ものすごい勢いで怒る。彼らは謝ったり反省したりしない。
私のまわりにはそういう人たちがいた。ひとつ例を挙げるとうちの家族が具合が悪く寝ているいうのを聞きつけて、「大丈夫ですか」と大量に電話をかけてきたり、やってきてインターホンを鳴らしまくる。結果具合の悪い人間が休むことができなくなる。家族も疲弊する。彼らは言いたいことを言うとさっさと帰っていく。
それがポイント稼ぎだと思う。”稼ぎ”というからには損得が絡んでくる。だから謝れないのかも。損は絶対にしたくないということだろうか。
そうか、他人を思いやるためには相手を見て・自分で考えて・自分の責任でやらなければならない。団体でなく個人の思いでやるもの。
どこかに正解があってそれに従えばいいというのではない。そしてそういうことは本からは学べない。まわりにそういったことを体現した人間がいなければならない。
そういうことではないか。割と絶望的だな。悪い見本はたくさん見た気がするが。
それにしてもなぜ”損得”なんてアイデアが出てきたのだろう。なんにでも損得はある、ということではなくて、なぜ損得という尺度で親切を測るようなことになってしまったのか、損得の考え方をベースに親切を行うような団体が出てきたのか。ということなんだけれども。
連想されること。勝手な思い付き。
昔の修道院の貧民対策は宗教的に良きこととされていて、喜びをもって行われていたという。経済や社会が発達してくるにつれ、ただ厄介者を押し付けられているという風に成り下がってしまったそうだ。
別の思い付き。
アメリカ人の考え方は独特で社会的な成功や金儲けが宗教的に良きこととされているらしい。現世利益バリバリのように見えるのだが。これはどういうことなのか。
なぜかこれらが関係あるように思える。どういうことなのかはわからない。ひどく抽象的な話だな。
最近読んだ本から考える。本の中の偉い人はオリジナルをかなり自由に解釈して発言していた。だからこの連想はそこまでおかしなことではないのかもしれない。
だけど、解釈するためにはその前にテキストを読み込む作業が必要になる。考えるためには典拠が必要でそれを読み込まなければいけない。
読み込むことで自分の言いたいことを”なんとか・ある程度”言うことが可能になるらしい。
ベラベラと言葉を出すことはいくらでもできるけれども、それに意味や力を持たせるにはそれなりの準備が必要ということだろうか。それが責任というやつ?
じゃあ、やっぱり本をたくさん読まなければだめじゃん。大変な作業だな。私にできるのか? ゾッとする。怠け者にはきつい。いやになる。勉強している人間はやる気がそがれたり、発言することが嫌になったりしないのだろうか?
やっと勉強をやる意味が少しずつわかってきたようだ。基本もできていないのにアドリブは無茶だ、ということか。本をたくさん読まないと難しい問題を言葉に出して整理したり対処することもできない。
まだ学生時代のつまづきの中にいる。頭の中もまわりの環境も大混乱だ。それを必死に整理している。
でも勉強よりも必要やモチベーションが先かもしれない。そうでないとコケるだろう。
そんなことを思った。
読んでいる側からは話があちらこちらに飛んで大変に読みにくくなっているかもしれない。でもそれこそがまさに私が生まれ育った環境だった。
家族や外部の人間が混乱した情報を大量に出していた。なんでそことそこがつながるんだよ・意味不明だよ、ということが当然のように起こった。そして来たものを受け止めてなんとか捌かないといけなかった。
私にとってはそれが当たり前の世界の話なんだけれども、多分異常なことなんだろうな。
沖縄の本を読んでこんなことを考えた。本や縁は不思議だ。