曇り。
湿度が高い。
アレルギー持ちとしては、花粉症もきついが、今の時期の草いきれも怖い。
いきなり肌が腫れ上がることがある。注意。
夢を見た
学校にいる。まわりの生徒にいきなり「病気」と言われて困惑する。どこに行っても言われる。
はじめに言い出したらしい生徒のところにいく。どういうことだ。具体的に説明しろ、説明するまで諦めないぞ、とその生徒に詰め寄る。
そう言いながら自分で、嫌な性格だ、本当は自分が悪いんだ、とどこかで思っている。
隣の教室に行き、授業を受ける。後ろのほうの知らない生徒の机に座る。机の上は荷物だらけだ。
いつのまにか夜になっている。歴史かなにか、社会科の授業のようだ。
手にノートを持ち板書を写す。これをやる意味はいったいなんなのだ。疑問に思う。
夜間の授業だったら1コマか2コマで済むからいいな、と一瞬思うが、1コマでも十分嫌だ、と思い直す。
授業が終わり帰る。もうへとへとだ。
電車に乗る。女子が隣にいる。同じ方向に帰るようだ。女子は眠っている。
乗り換える駅を過ぎてしまったことに気づき、女子を起こしてそう言う。
隣の駅に着く。駅の先には線路がなく、線路の端にストッパーのようなものがある。
電車は減速せずにそこに突っ込んでいき、脱線して道路に飛び出る。
「何とかなると思ったんですけどねえ」と車内アナウンスがある。思ったんですけどねえ、じゃねえよ。
女子と電車を降りる。(終わり)
思ったこと
目が覚める。なんだか疲れた。お腹の調子が悪い。ゴロゴロ鳴っている。
学生時代、過敏性大腸で苦しんだことを思い出した。
授業中は大変だった。なんとかしのいでいた。授業どころではなかった。
通学中はどの駅のトイレがホームから近いか、どこが空いているかなどに気を使った。
だが大抵は疲れきって眠っていた。始発駅からの乗車だったので座れたのがよかった。
これっていわゆる"自己責任"なのだろうか。たとえ自己責任であっても、個人の力ではどうにもならないことの方が多い。
たいていの問題は分かりやすい原因が一つだけあるわけではないからだ。いくつかの要素が複雑に絡まりあってできている。分かりやすい答えなどない。
だからそれに言及してもまったく意味がないと思う。それを言っても困っている相手をさらに追い詰めるだけだ。
とは言うものの、具合が悪かったあの当時、学校を辞められたらここまでボロボロにならなかったのでは、と思うこともある。本当に歯切れが悪い。
最近読んでいる本:
「エミリ・ブロンテ 神への叛逆」(ジル・ディックス・グナッシア著 中岡洋・芦澤久江共訳 彩流社)
まだ、最初のほうを少し読んだだけだ。例によってざっくりした感想。ノリだけのような気もする。
ブロンテ姉妹やドストエフスキーのいた時代は、産業革命などで、昔からあった素朴な信仰や価値観がガタガタに崩れ去った時代らしい。
小説に登場する主人公はひどい状況におかれている。
色々なものに向かって「ふざけんな、バーカ」と噛みついたり吠えている気がする。私の個人的に思ったイメージ。
(ブロンテ姉妹の作品は読んだことはなく、あらすじを少し知っている程度、ドストエフスキーは若い頃いくつか読んだが内容はほとんど覚えていない、そのレベルでの感想)
それを感じ取って、かわいそうに、と思った。皮肉とか冷笑とかそういうことでなく、素朴な思い。
いたはずの保護者が実はいなかった、とか、いつでも帰れると思っていた故郷がなくなってしまったとか、そういうレベルのショック。
彼らにとって、信仰は本当に生活の深いレベルにあったらしい。そこに驚く。日本に住んでいる私からは想像もできないことだ。
そのレベルの激しい変化が起きてしまったら、それまでみたいな形のままの信仰は無理だろう。
母の入信している教団みたいに、自分たちに都合のいい情報だけ信じて、外界からの情報を一切遮断する、というのは、そうなってしまった世界でのひとつの対処の仕方なのかもしれない。
そう思った。まあ、そういう自己都合のみで生きている人たちがまわりにいるというのは大変に困難な状況なのだけれども。
さらに自分のおかれている状況への理解が進んだ気がする。破綻した世界での生き方、対処の仕方、か。
ということは、100年以上前に人間の拠り所のひとつが、派手に破綻していた、ということなのだろうか? 何だか知らないけれども大変じゃん。
それが現代まで続くしんどさに繋がっている? それの代わりは見つかるのだろうか。
なんて思った。よう知らんけど、の世界。