晴れ。
暑さは前と同じだが湿度が増している。
怖いくらい汗をかいている。これが"正常"なのだと思うが、不安になる。
こんなに大量に水分を放出し続けて内臓は大丈夫なのだろうか。
着替えるのが面倒。
本を読む。
「認知バイアス 心に潜むふしぎな働き」(鈴木宏昭著 講談社ブルーバックス)
認知バイアスとは、心の働きの偏り、歪みのことだと、"はじめに"で説明されている。
第6章の言語がもたらすバイアス、を読んでいて気になる言葉にぶつかる。
私たちはコトバを理解するだけでなく、コトバが語っている状況を理解しているのだ。このことを認知科学では状況モデル(situation model)の構築と呼んでいる。そしてできあがった状況モデルが話者の記述しようとしていた状況と合致した時に、その文が理解できたということになる。つまり文、文章、発話を理解するとは、その中のコトバを理解するのではなく、コトバによって語られた状況、世界を理解することなのである。
(160~161ページ)
大事なことを知った。なぜ子どものころ、相手の言ったことがわからずに混乱したかわかった。
しゃべった相手が何を考えているか想像が全くつかなかったからだ。
なぜそうなったか。私のまわりにいる人たちは特殊だった。
飲んだくれの父親、精神的に不安定で宗教団体に入信している母親、重度の知的障害持ちの姉。
皆しゃべっていることから、相手の世界を推し量るのが困難な人たちばかりだった。
特には母は、自分の理解や感情を圧し殺して「こうでなければならない。こうすべき」でしゃべる人なので余計に混乱した。
口では「こうしろ」といっているのに、本人の身振りからは「そうしたくない」というメッセージが出ている。
子どもの自分はなんとか「言われたこと」を理解しようと一生懸命考えた。
それで相手の本心を言い当ててしまい、激怒されたのかもしれない。
あるいは、「人間と言うのは本心を圧し殺して、"こうすべき"で生きるものなのだ」というメッセージとして受け取ってしまったのか。
それはとてもつらい生き方になる。
学校で学習が困難だったのもこのせいだろうか。
学校のカリキュラムは膨大なので、全部を丁寧に説明していたら終わらない。
だからどうしても、ぶつ切り、箇条書きの説明になる。
別にその世界を先生が生きているわけではない。だから人間が持っている世界が見えてこない。
下手したら先生が全く理解していないことをしゃべっている可能性もある。先生にも得手不得手がある。
そうか、言葉を呪文みたいに覚えても意味ないのか。
しゃべる人によって同じ言葉でも全く違う意味になる。
この辺が勉強でのつまずきだったのでは。
理解していることをわかるようにしゃべってくれる大人。自分が持っている世界を伝わるまで時間をかけてくれる大人。
なぜかヘレンケラーとサリバン先生の関係が思い浮かんだ。
とはいうものの、そんな人が見つかったら奇跡だよな。
見つかっても本人がそれをしたいかは別問題だし。
そういう"師"を見つける。それが学びなのだろうか。
そんなことを思った。