korenannan’s blog

関東地方某県に住んでいます。日々思ったことを書きます。時々放ったらかしにして期間が空くことがあります

少し前・他人の思い出話が楽しい

 晴れ。五月晴れ。

 

 日差しはきついがまだ風は冷たい。

 

 

 

    夢を見た

 何かの施設にいる。外国らしい。

 

 男性が口紅を塗られて騒いでいる。

 

 どういうことなのか。どうやら写真写りをよくするためらしい。

 

 横にいた女性警備員が、それだったらおすすめの設定がある、と言う。

 

 どうやらプリクラ的な何からしい。(終わり)

 

 

    思ったこと

 目が覚める。また変な夢。

 

 最近観ている動画のせいだろうか。

 

 「THE LAST OF US」をU-NEXTで引き続き観ている。

 

 最近の作品らしく、LGBTに配慮された物語になっている。

 

 でもそのせいで、原作の設定・筋書きが変わってしまう。原作にはない要素が増えたことで、話が複雑になり物語の筋道が追いづらくなっている。

 

 時代の流れとはいえそこが不満だ。

 

 

 映画「ハンニバル」も観る。この映画も前作の「羊たちの沈黙」も大変楽しく観ている。

 

 これらの作品を観ると何故か落ち着く。変な性分だ。

 

 これは20年ほど前の作品だ。出てくるPCやネットのブラウザのデザインが古い。

 

 自分にとってはついこの間のような気分なのだが、機器のデザインがそれを容赦なく否定してくる。

 

 そのことに驚く。時代の流れの早さや変化の大きさ。

 

 

 最近徹子の部屋や昔の笑っていいともを久しぶりに観てみたが、年配の方や昭和の人たちは明らかに話し方が違っていた。

 

 「〜でございますでしょ」なんて言い方を女性がしている。

 

 当時を思い出してみるが、まわりにそんな話し方をしている人間はいなかった。

 

 当たり前か。自分はその時学生でまわりにいるのは同年齢の人間だけだった。大人はいなかった。

 

 「〜でございますでしょ」なんて言う人たちがつい最近まで普通にいた。それが何だか面白い。

 

 明治・大正時代と地続きになっているみたいで楽しい。まあ自分の偏見なんだけれど。

 

 今の若者にとってはブラウン管のディスプレイもそんな感じなのだろうか。自分にとっては普通の存在で作品の中に出てきても意識に上ることなくスルーしてしまうのだが。

 

 

 自分は最近の作品よりも10年20年前の作品を見るのが楽しい。その事に気づいた。

 

 自分が若者だった頃の作品だから、というよりは、当時観ていた若者が大人になって、当時のことをあれやこれや話しているのを聞いているのが楽しい、ということらしい。

 

 一段回屈折している。作品そのものより、他人の思い出やうんちくを聞くのが楽しい。

 

 

 また本を読み進める。「群衆 ーモンスターの誕生」(今村仁司著 ちくま新書

 

 この危機の状態は、ノーマルな生活の流れを構成していた「差異の体系」をガタガタにしてしまい、無差異状態を現出します。差異の体系においては、各人は他人との距離をとりつつ生きることができるのですが、無差異の状態では各人は距離をとることができず、相互に融合した塊(マス)になってしまいます。群集心理学が「個人の群衆への解消ないし融解」と呼ぶ現象がそれにあたるでしょう。すべての人びとが「同じ見方・同じ感情」をもって行動するでしょう。万人が一様性という特質を帯びるのです。

 

人間が群衆になってしまったらどうなるかということの説明。また引っかかる。

 

 群衆になるまではお互いの距離をたもって生きてきた。群衆になってしまうとお互いの距離がガタガタになる。

 

 自分が見聞きした母の入信している団体の問題。

 

 個々で意見のある(ひとりひとりの信仰がある)状態ではなく、皆同じようなことを叫んでいる。(叫んでいることを理解しているかどうかすらわからない)

 

 教団の本を引用しているが、よく聞いてみるとその場のノリで話しているだけ。

 

 自分たちがしたことの結果として、起きたことのフィードバックもまともにされない。

 

 かなり不思議な状態。

 

 ひとりひとりの問題ではなかったのかも。群衆という異常な状態。

 

 カルトは高揚状態などを利用して、乖離状態を人工的に作り出すという。

 

 それによって群衆という異常な状態を人工的に作り出していたのだろうか。

 

 何となくわかった気がする。何故説明しても聞いてもらえなかったのか。皆同じような雰囲気になるのか。

 

 

 彼らは常々「世界の皆が同じことを信じて、同じように話したらどんなに素晴らしいか」と話していた。

 

 その事自体は素朴な思いかもれないが、その状態をテクニックで人工的に作り出そうとしたことで、群衆というとんでもない怪物ができた。

 

 そういうことだろうか。

 

 よくわからないけれど。自分が目の前で見たものに対するかなり腑に落ちる説明だと思う。

 

 かなり抽象的だけど、それでもまったく意味不明だったものに、それなりの筋の通った説明ができた。

 

 読んでいる方たちにとっては、これでもさっぱりかもしれませんが。そのくらい訳の分からない体験をしたということです。自分でもそれがやっとわかってきました。

 

 

 でもこれは罪に問えるのだろうか。話がでかすぎる。

 

 せいぜい、高揚感を伴う行為や閉鎖的な環境で行うことの禁止など、やりかたを制限することだけだろう。

 

 ガチで禁止や制限をするとなるとかなりの犠牲やトラブルが出そうだ。

 

 

 そんな事を考えた。