晴れているが湿度が高い。
そう、梅雨ってこんな感じだった。
思い出してきた。
夢を見た
教習所にいる。講習を受けている。乗っているのは普通自動車だが何故か左ハンドル。
いつもの?通り、ブレーキが効かない。必死にブレーキペダルを踏み込む。
外周を走る。こんな狭い直線で3速まで入れるなんて無理だ。
やらなければいけない課題があるのはわかっているが、安全第一で運転する。
ここで事故を起こしたらシャレにならない。
ただのカーブなのにウィンカーを出す。とにかく必死だ。(終わり)
思ったこと
目が覚める。久しぶりに恐怖?を味わった。私はペーパードライバーなので運転の経験はほとんどない。
セラピーを受ける。世の中がコロナになってからずっとオンラインでのセッション。先生にはもう何年も会っていない。妙な感じだ。
経験の中身が変わってしまった。先生って本当に“いる“んだよね?
最近のことやこれまでのことを話す。宗教2世の問題。以前に比べて盛んに報じられるようになった。いいことだがあまりに生々しすぎて見ていて辛いこと。
これまでたくさんの人たち(主に医療関係者)に自分の問題を話してきたが、反応はさっぱりだったこと。被っている被害に比べてあまりに反応が薄かった。
一体何故なのか。医療関係者の中にはクリスチャンもいたが、“他人に親切に“以上の知恵がなかった。起きているトラブルの酷さに比べてこれはあんまりだ。
そんなことを話して(というかほぼ愚痴)セッションが終わった。もっと大きなレベルの知恵が欲しい。
セッションを終えてから気づいた。あれ、先生もクリスチャンだったっけ。まずかったかな。
宗教をやっている?人は自分の信仰しているものが抱えている“毒“について、もっと自覚して向き合うべきではないか。
それは難しいことなのだろか。自分自身も厄介なトラブルを抱えていることに気づくまで何十年もかかったし。
厄介なトラブルといえば、さらにあった。他人の親切や社交辞令が怖い。親切にしてもらったり、フレンドリーに近づいてきて挨拶されると文字通り凍りついてしまう。
頭の中で警報が鳴り(比喩)、身体から力が抜けて動けなくなる。その後嫌な記憶や連想が半日くらい巡る。調子を崩して自己嫌悪に陥る。親切に・フレンドリーにしてくれたのに自分はどうしてこんなになるのか。相手に悪いではないか。
親切に近づいてくる→家庭内に入りこまれる→家庭崩壊までいかなくてもかなり厄介なことに巻き込まれる。これまでこの図式にずっと悩まされ続けてきた。このせいだと思う。
彼らは(意図しているのか無自覚なのかわからないが)親切やフレンドリーな振る舞いを他人に近づき支配するための方法として使っている。しかも彼らがやったことで起きる不具合はがんとして認めない。だから私の具合の悪さはなかったこと、あるいは別に原因があることにされる。もしくは(無意識にでも)徹底的に無視される。暴力とその結果の否定のセットでかなりきつい。
普通ならこのフレンドリーさは社会で生きていくのに大事なスキルだ。誰もこんなこと疑ってかからない。疑ったとしても“それなり”にだ。だけど私はそれで警報装置が働いてしまい、一気に警戒モードに突入する。
自分の場合社会を生きていく上で必要なこのスキルに対する信仰?・信頼が崩壊してしまった世界を生きている。やはりこういうことはよくない。他人に対する素朴な信頼がなくなる。社会の外側に放り出される。
そうなるともう元には戻らない。というか元には戻らなかった。崩壊した上で何か別の知恵が必要。どうもそういうことらしい。
ということは“普通の“人たちは、“絆が大事“、とか“他人に親切に“くらいのアイデアでうまくいくようにできているのかな。あるいはお酒を飲んだり旅行をしたり気分転換をすればそれで問題なく生きていけるレベルに問題がおさまっているのかも。
あくまで“かもしれない“という話。
というか、こんなことで毎回ドッカンドッカン世界が揺らぐレベルのダメージを受けるのはかなわない。本当に挨拶されただけで精神科に通院とかもあり得るレベル。本当にアホらしい。
そういうことだった。まいったな。
わかったところでどうする? とりあえず、ブログのコメント欄を閉鎖してみる。フレンドリーに礼儀正しくコメントされても大ダメージを受けてしまう。
何だかなあ。人としてアカン気がする。でも我慢や根性ではどうにもならなかった。ましてやポジティブシンキングは悪化させるだけだった。
やっぱり、これ専用のセラピーや考え方がはっきりと必要だと思う。
もっとも“これ“、といっても問題が多岐に渡り過ぎている。信頼、信仰、どうあるべきか、人間の成長、社会の仕組み。などなど。
そんなことを思った。