korenannan’s blog

関東地方某県に住んでいます。日々思ったことを書きます。時々放ったらかしにして期間が空くことがあります

休んでいるつもりでも身体は働いている

 曇り時々雨。

 

 思ったよりも寒い。

 

 

 

       夢を見た

 天気予報を見ている。画面上の日本地図は真っ赤だ。また暑くなるのかよ。やだなあ、と思う。(終わり)

 

 

 

       思ったこと

 目が覚める。

 

 買い出しに行く。季節が一気に進んで長袖を着ていても寒い。

 

 前回も書いたけれどこういう季節の変化の影響がもろに身体にくるようになった。

 

 季節が進むと何日か調子を崩し横になることが増えた。季節の変化に対応するためにエネルギーを使って身体全体で変化している。それを実感としてわかるようになった。

 

 何かの変化に対応して変われなくなった時が死なのだろう。傷や病気が治るのも変化だ。

 

 前回のお題「サボる」と関係あるかもしれないけれど、自分はサボっているつもりでも身体はめいっぱい仕事している。身体のことも考えないといけない。

 

 私は頑張っている、とか私はサボっている、とかいうけれど、”私”だけが自分ではなかった。黙々と活動している部分がある。もっとうまい言い方があると思うけれど、そんな気がした。

 

 

 身体が弱っているというのは悪いことばかりではない。感受性が鋭くなる。今朝、窓を開けて目に飛び込んできた向かいの敷地の雑草の美しさにハッとした。

 

 ”夢は枯野を駆け巡る”、という芭蕉の辞世の句も、もしかしたら死を覚悟した暗いものではなく、澄み切った感受性の中で圧倒的な官能や恍惚感に包まれたものだったのかもしれない。だとしたら素晴らしい?亡くなりかただと思った。

 

 私は俳句は詠んでいないけれども、たとえ素晴らしい句が詠めなくてもその風景だけは追体験してみたい。

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人生を外側から見る視点がほしい

 

 

  今週のお題「爆発」

 爆発。自分にとってはぶち切れて怒る、というイメージだ。網走番外地とか、唐獅子牡丹とか。でも実際にはそんなことはできない。後始末ということもあるし。実世界では時間も空間もつながっていて映画みたいに格好よくいったところで終わりとはならない。

 

 仮にできるとしてもそれが可能になるためは少なくとも相手と対等な力関係がないといけない。

 

 それで思い出したけれど、今日歩いた町は戦時中爆撃にあった。自分の中の爆撃のイメージは空の上から爆弾を落とす風景だ。だけどそれは落とした側(アメリカ)からの風景だ。爆撃されていたら撮影している場合ではない。

 

 爆撃されている側からしたら空から圧倒的な「暴力」が大量に降ってきたようなイメージだろうか。天の災いだ。圧倒的な力の差。下にいる人間はどうすることもできない。なんだかわからないがとにかく逃げる。俺がなにしたっていうんだ、という風か。

 

 B29に対抗するために竹やりで訓練したという話を学校の授業などでよく聞いた。当時はなんのことかよくわからないかったが、何かを必死にやってそれにしがみついていなければその圧倒的な不条理に耐えられなかったのではないかと今は思う。

 

 そう思うことで自分の昔の経験も理解できた気がした。10代のころはアホなことをたくさんやった。あの頃はとにかく辛かった。アホなことをすることでなんとかやりすごしたのか。理不尽に理不尽で対抗する、そういう理不尽なありかた。そんな人生嫌だ。何も残らないじゃないか。焼野原だ。

 

 映画「戦場のメリークリスマス」でも理不尽に関するセリフがあったかな。あんな環境で厳しく強制労働をさせていなかったら、皆おかしくなっていただろう、とかそんなやつだったと思う。記憶があいまいだ。

 

 これがお題を見て思ったことだ。でもなんで爆発する側でなく、される側の話になっているんだろう。

 

 

 

(このお題を見た瞬間に頭の中で自動的に「プロ野球1分勝負」というセリフが流れた。ニュースステーション久米宏さんか。あのコーナーではその日のプロ野球の結果を真心ブラザーズの「どか~ん」という歌にのせて流していた。懐かしい)