曇りのち晴れ。
天候の移り変わりが激しい。
夢を見た
道を歩いている。うちからかなり離れたところだ。また登校している。
体育の時間があるのに気づく。だが体操服は持っていない。自宅に引き返す。
かなりの距離を移動する。途中で男子の同級生に会う。一緒に移動する。
立派な高架の道路ができている。私の知らない道だ。そう言うと、少し前にできたと同級生が言う。
峠を越える。新しい道のおかげで楽だ。
自宅に着く。同級生と母は知り合いらしく話している。タンスの中を探す。そもそも体操服ってどんなやつだっけ。
Tシャツではだめなのか。見つからない。ふと、押し入れの中にあったのに気づく。
押し入れの中の袋に1セット丸ごと入っているのを見つける。これで学校に行ける。
いつの間にか女子の同級生もいた。体育の時間はすでに終わったのでは。
そもそも学校ってうちの近くだよな。私はどこに向かっていたのか?(終わり)
思ったこと
目が覚める。私はいまだに学校に行く資格がないと思っているところがある。
それがこういう夢になって出てきているのでは。資格というか学力というか学ぶ動機・姿勢みたいなものが出来上がっていない。
本を読む。「エルサレムのアイヒマン」(ハンナ・アーレント著 みすず書房)まだ途中だけれどたくさん考えることがあった。それはいい本の証拠だ。
内容は元ナチスのアイヒマンのエルサレムの法廷で行われた裁判のルポルタージュ。
気づいたことは:
アイヒマンの小物っぷりがすごい。読んでいて目も当てられない。いかにも私心のない仕事熱心な官僚といった感じで身につまされることが山のようにあった。
だけどそれ以上に身につまされたのはユダヤ人社会もナチスに協力していた。(だからあれだけ秩序正しく収容所に人間を送り込めた) という部分だ。
それが自分の個人的な経験の古傷にじかに触れてきた。私は両親や母の所属していた宗教団体にかなりつらい目にあわされてきたが、その記憶から、
「お前は被害者面しているがお前も共犯者で加害者なんじゃないのか?」
と問いかけられてきた気がした。
これはとてもつらいことだ。こんなものを抱えていては普通には生きていけない。
当時のアーレントのルポを読んでユダヤ人社会から猛烈な批判が起きたのは当たり前のことだった。このことでアーレントはユダヤ人の友人をほとんど失ってしまったそうだ。
「これから前向きに生きていこうとしているのになんでこんなことをするんだ」
ということだと思う。
人間は忘れることで生きていくことができる。忘却は強力なツールだった。だけどそのせいで何度も同じ失敗をする(ように見える)。
ドイツもイスラエルもユダヤ人社会も「過去の一部の人間」のせいにすることで政治的に決着をつけようとした。その一つがこの裁判だったらしい。
それをアーレントが蒸し返してきた。皆それぞれうしろめたいことがある。だから皆カンカンに怒った。これこそ哲学者ということだろうか。
自分の経験からいってもその場に巻き込まれていたらできることなど限られている。身の危険があったらなおさらだ。
巨大なシステムと一人の人間はけっして対等ではない。一人の人間がシステムすべてと対峙できるのなら別だが。
システムや自分がしたことが未来や全体に与える影響をマクロに見ることができる人間なんてほとんどいない、というかいない。それこそ神の視点だ。
その場で自分にわかる範囲で最良の選択をした。当時の人間はそう思っていただろう。
しかしそれが結果としてナチスのジェノサイドに協力することになった。それをアーレントにつつかれた。
この話結論が出せないな。人間こういうこともありうる、というのが「罪の自覚」なのだろうか。わかったからってどうすることもできない、というところも含めての自覚。
大きなシステムは人間が対峙できたりコントロールできたりするものではなさそうだ。というのも結論の一つだ。
人間は場当たり的に動物的に判断する。じゃあ良心とか理性って何なんだよと思う。
今週のお題「花粉」
今週のお題を見ていて健康診断ってナチスが始めたんだよな、と思い出す。(確か)
国民の健康のためでなく、優秀な遺伝子を選別するためだった気がする。
・・・寒気がしてきた。花粉症か。上の話題の重さに比べてこの軽さはなんだ。