曇り。
本当に寒い。
冬が来た。
また考える。最近読んだ本のこと。(「キリスト教の真実」竹下節子著 ちくま新書)
個人の利益よりも共同体の共通善を優先してしまったために、ナチスのような化け物が生まれた。各々の個人の都合は封殺された。
共通善はいいことのはずなのに。
お世話になったから多少の迷惑をこうむるのは仕方がない、多少の我慢は仕方がない、という考え方(これは母親にさんざん言われた)。この考え方のおかげで家庭内がめちゃくちゃになった。
これとどこかで通ずるものがあるのではないか。
お世話になったことと迷惑をこうむってもいい、ということとは何の関係もなかった。というよりもそれをやってしまうと制度やシステムが腐っていく。化け物が幅を利かせるようになる。
我慢や盲従は化け物を生む土壌になる。そういうことか。ちゃんと個々人の都合も優先しなくてはいけない。これは個々人が発言することも大事だが、それをよしとする集団内の合意がちゃんとできていないと機能しない。
そうでなければただの自己責任になってつぶされてしまう。
ヨーロッパの国々はナチスにめちゃくちゃにされて真剣に考えた。結果様々な知恵が生まれた。例えば大衆は一時の情緒に左右されやすいので、「倫理上の問題は多数決にかけない」など、「数」よりも「質」を優先する合意ができている。(163ページあたりの内容)
確かに大衆はムードに左右されやすいし、何よりも素人だ。この性質や議会制民主主義の選挙や多数決の原理を利用してナチスは台頭した。
自分の見たものや感じたことが(うっすらとぼんやりとだけど)見えてきた気がする。
はじめは嫌な感じだったけれどもいい本だわ、これ。
それにしても、母親のまわりにいた教団の人間が親切そうに見えてもゴリゴリに自分の損得、自分の見た目だけ気にしていたのはなぜなのだろう。
ものすごく立派そうに聞こえることを言っていたのだが?
宗教なんてそんなものだ、という考え方もある。まわりでとてもよく聞く発言だ。日本的な発言なのか。
確かに日本では聖職者はだらしないものだという暗黙の了解みたいなものがある。坊さんはスケベ、みたいなやつだ。
その了解が悪い風に作用していて、宗教で起こる問題が野放しなる原因になっているのでは? 権威や特権はあるけど好き勝手出来るというような。
それとこれをごちゃ混ぜにして考えてはいけない。でも具体的に何と何を混同しているんだろ?
この本の中でアメリカのメガチャーチのことが書かれていた。スタジアムやネットでたくさんの信者を集めて公演している。そこの指導者は「貧富の差があってもいいじゃん。金持サイコー」みたいなことを言って大変人気があるらしい。本の内容をおおざっぱに説明してみた。
それを読んでうそ寒い気持ちになった。こんなの宗教じゃないじゃん。でもこのことが目の前にいた信者たちのメンタリティーに通ずるものがある気がする。宗教っぽい何か。宗教とは別物なのだろうか。
宗教って何よ。これが人気ってどういうこと? すっきりしたいだけ? 娯楽か。
もう相当な前提から疑ってかからないとわからないようだ。
(ヨーロッパは反省して考えているのに、アメリカはあまりそれをやっていない気がする。直接戦場にならなかったからだろうか? あくまで個人の感想。そして日本はもろにアメリカの影響下にいる)
そんなことを考えた。
本当にややこしい。・・・ややこしいのは私の頭の中か?
感覚ではわかっていて当たり前になっていることでも、コツコツと少しずつ勉強して言葉にして出していかないと力にならない。そんな感じだ。
感覚での当り前で止まっていてはダメだ、ということだろうか。なあなあとか暗黙の了解とかそういうやつのままだと戦えない?