また大荒れの天気になると言う。
コロナの感染者数が急増している。
パンデミックの終息の仕方のひとつにウイルスが弱毒化して風邪などと変わらなくなるというのがあるそうだ。
これもその流れだといいのだけれども。
「罪と罰の彼岸 打ち負かされた者の克服の試み」(ジャン・アメリー著 池内紀訳 みすず書房)
をさらに読む。本当に数ページずつしか読めない。内容がユダヤ人の著者がナチスに捕まっていたという厳しい体験の本であるし、それに引っ張られて自分自身の辛い経験も思い出してしまう。
でもそのお陰で整理できて助かる。困難を言葉にすること。その先達を見つけた気分だ。
"拷問"という章を読む。ゲシュタポに捕まって殴られたとき、世界に対する信頼が失われたという。(65ページ)
それは人間の尊厳とかいう抽象的な何かではなくはっきりとした経験だ。警察という自分を守ってくれる(と期待してしまう)ものに攻撃されること。
これってDVに驚くほど似ている。自分を守ってくれるはずのものに攻撃されてしまったら、そこから先はいったい何を信じて生きていけばいいのか。
気がつく。どこか遠くにナチスがあり攻撃を受けているのではなくて、近所の警察や公共機関すべてがそれになってしまっているのだ。日常がそれになってしまっている。その絶望感。
どこにでもみかける平凡な顔が最後にはゲシュタポの顔になるということ。
(62ページ)
悪人はわかりやすい悪人の顔をしているのではなく、普通のおっちゃん・おばちゃんだった。そうだ、そうだった。自分の経験を代わりに言葉にしてくれて助かる。
もうそうなってしまったら、街で会う人会う人みな悪人でないかと疑いながら歩くことになる。なにせ普通の人で見分けがつかないからだ。
"普通"の生活は無理だ。その人の戦争は終わっていない。
まわりの人から見たらひどく緊張して怖い顔をして歩くお前のほうが悪人に見える。
まわりの環境との摩擦。疎外感。このブログも外から見たら、ただ辛気くさく、読んでいて辛いだけのものになっているかもしれない。
でもこの著者はなぜなんとか生活できていたのだろう。(最後には自死してしまうけれど)
ちょっと考えてみる。ユダヤ人のコミュニティがあったためではないか。酷い目に遭ったのが自分だけでなく助けを得ることができた。
トラブルが戦争という期間限定のイベントだったのもよかったのかも。(よいなんて決して言えないけれど) 少なくとも戦争は終わっている。
著者には家族もいた。物書きとしての気概もあったかもしれない。
それに比べるとだらだらと日常の中で続くDVみたいなもののほうが、少なくともその点だけにおいては辛いのではないか。
戦争みたいにみなに共通する体験でないので孤立するうえに、地味すぎて意義なんてとてもでないが見つけられない。
戦争を生き残った人にこんなことを言ったら怒られる(笑われる?)かもしれませんがそんなことを思った。
他人に打ち明けることのできない経験の記憶を持つということ。
あまり考えすぎて煮え煮えにならないようにしないと。