曇り。寒い。
今年ほど春を待ち望む気持ちになったことはない。
花粉症は困るけど。
父はだいぶんよくなってきた。
看病の過程でいろんなものが見えてきた。
家族と自分のメンタルの問題や、家庭内で揉め事がどういう風に起きているのかを観察することができた。
言葉の行き違いをそのまま押し通すことによって起きる揉め事。
そこに気づけたのは、私がそれだけ強くなったのかもしれない。
考える。
自分みたいに1から10まですべて理屈で考えなければわからない人間は珍しいのかもしれない。
世間ではそういうのはあまりいいこととしてはとらえられていない。だか自分がそうならそこを生かすしかない。むしろ徹底する?
思い出す。私が学生時代、数学でつまずいたのは、言葉の問題があったからではないか?
論理というのはひとつひとつしっかりと積み上げていかなければいけない。
まわりの大人が約束を守ってくれるとか、"はい"や"いいえ"がその通りの意味を持つなど、言葉の効果や使い方をしっかりと示さなければいけないのではないだろうか。
昔のうちみたいに精神的に不安定な人間がいたり、毎回違う内容を好き勝手にしゃべる人間がいたり、親切が突然暴力に転じたりする環境では、そういった能力は育たないのではないだろうか。
数学だけでなく、国語や他の教科もそうか。私はたまたまテストの点数がよかったので気づかなかったが、テストで点数が取れることと、考える力やコミュニケーションの力は別物らしい。
考える力が育たないと現実世界の問題には対処できない。そういうことだろうか。
そういえば昔からテレビで囲碁や将棋の中継を見ていて、なんでこの人たちは落ち着いて考えられるのだろうと不思議に思っていた。
星一徹ばりにいきなり盤をひっくり返されたり、それ引っ込めろや、とか言われたりしない。そういう環境。
囲碁将棋などもさっぱりわからない。ルール以前に、なぜそうなるのかがわからない。これも環境によるのかも知れないなんて思う。
まあ、それ以前になんにでも才能や能力の問題があるけれども、ここではそれは言わない。今の問題はそこではないし。
(自分は巨人の星はあまりよく知らないけれども、星一徹・飛雄馬親子に関わった人間はろくな目に遭っていない。それにも意味があるのではないか)
まわりの人間がしゃべる言葉によってその人の頭の中の環境が作られる。
そんなことを思った。