晴れ。
もうかなり寒い。
思ったこと
また考える。思い出す。
教団や母ともめて教団の外に出た(というか放り出された)ころ、自分は小学生だった。
今思うと外の世界はわからないことだらけだった。あくまでも今思えばだ。当時はただ必死だった。何かを感じる余裕はなかった。
外の世界の人間は堕落しているようにもみえた。自分は精神的に病んでいたし教団や母の決まりしか知らなかったのでとまどった。私はまわりからは大変に扱いづらい子供だったのだろうと思う。
ただ、外の人間には教団の人間にはない生き生きとしたバイタリティがあった。まっとうな生き物として生きている感じがした。教団の人間にもパワーはあったが言われたら何でもやってしまうやばさみたいなものだった。彼らには個がなかった。個がない人間には謝ったり反省したり考える自由はない。
私は考える自由が欲しかったのかもしれない。そのためには孤独というものが必要らしい。
あとになってセラピーを受けたり本を読むようになって思う。こうすべきとか、こうでなければならない、とか、決まりや家族というものを美化・絶対化してそれを他に押し付けると人は病むという。いい加減な家族のほうがうまくいっているようにみえる。
どういうことだろう。どこかに絶対的な正解がありそれに従うという形にしてしまうと自分の責任でなくなってしまう。自分の責任でないと自分がつらい、やめてほしい、と思ったことでも”正解”として当然のように他人に押し付けることになる。結果本人が持っていたトラブルが相手に継承される。
何の発展の余地もない。余地がいい加減の部分なのか?
自分のつらい・苦しいをちゃんと認識できることがまともさの第一歩なのだろうか。乖離したままだとそれは不可能。そしてそれが許されるような環境が必要。
それにかつていた世界には笑いやリラックスもなかった。常に緊張と無理を強いられていた。それがあるのがまともな子育てや人間関係ということでいいのかな。
人間にはリラックス。宗教には隣人愛。それがまともってことなのか。隣人愛にはその前に自分自身を大事にするという前提がある。
仏教だと自分を大事にする。他人を大事にする。自他を平等にみる。という順番だったか。
他人を大事にする、だけだと誰か・何かのために自分や身内を平気で犠牲にする人間が現れてしまう。立派のように見えてただのからっぽな操り人形だ。そういうものをたくさん見たような気がする。
あとその当時の経験から感じることは自分が思ってもいないことをべらべらしゃべる人間のやばさ・恐ろしさだ。専門家でもないし自分で生み出したものでもない。ただベラベラしゃべるだけ。
その結果起きたことについては全く考えない。というか何についてしゃべっているのか本人もわかっていないので考えられない。無責任のグレードがかなり高い人々。情報が簡単に手に入ることによって起きた副作用か。
そんなこと思った。