まだ明け方だ。
目が冴えて眠れない。
ここ2日ほど読んだ本(※)についてずっと考えている。感じた違和感について。
基地がある。それが問題になっている。たとえれば他人の土地に勝手に家を建てて住んでいる。問題になって当たり前だ。それぐらい素朴な話だった。
中国がどうとかいうけれど、別々の問題をごちゃまぜにしてはいけない。
兵隊の犯罪率は地元民よりも低いというけれども、問題はそういうことではないのでは。
被害にあった人間をただの数字でとらえようとしている。自分達のしていることを正当化しようして、この数字を出したのだろうが、そのことでかえって揉め事を起こしている。
あの人たちはそれらのことにまったく思い至らないのではないか? それでトラブルが大量に起きる。
こちら側からしたら大変に無神経で失礼なのだが、それがなぜ彼らにはわからないのか。
なぜか。あの国は理念でできているという。理念で生きる人は強い。
そのことを別の言い方をすれば頭の中の世界と外の世界の区別があまりないのではないか。
そうであれば、他人も自分の頭の中に住んでいると、どこかでとらえているのではないだろうか。
自分とはまったく考え方の違う他人がいる、いやそんなことはどうでもいいのかもしれない。自分の意見を貫くだけ。それが理念に生きるということでは。
そのことで他人の存在が軽くなってしまう。自己実現のための道具。極端な言い方をすると他人の命も理屈に過ぎなくなるのでは。
もしかしたら、とても面倒くさい人たちと対峙させられているのかもしれない。それだけでストレスフルな環境。
それにこちらがあの国の理屈とズブズブに同化して、なんの疑問も起きなくなっているのもまた不思議だ。
それ以前にそもそものところで問題が起きているのに、それ以上なにを言っても無効だと思う。事態が進んでしまっても、それはどこかで覚えておかないといけない。
そういうことだろうかと考えた。これまで書いたことと重複している部分もあるかもしれないけれど、何度でも考える。
それにしても、大変に失礼なことを言っているな。別にあの国の人たち全員がそうだとか言いたいのではない。問題を整理するための仮説だ。
もしかしたら突き詰めて考えるということは、それだけで危険なことなのかもしれない。
でも、"そもそも"がわからなかったら、その上にどんな建物を建ててもうまくいかないと思う。仮にうまくいったように見えても、いつか必ずそのツケが回ってくるだろう。
それが私のこれまでの人生の失敗の原因だった気がする。だから考えなくてはいけない。
※:「だれが沖縄を殺すのか」(ロバート・エルドリッヂ著 PHP研究所)