korenannan’s blog

関東地方某県に住んでいます。日々思ったことを書きます。時々放ったらかしにして期間が空くことがあります

自分の問題がどのレベルにあるのか見極めるのは大変だった

 晴れ。

 

 今日から2月。

 

 早すぎる。

 

 

 

 父はだいぶんよくなってきた。

 

 予想通り、母が入信している教団の信者がなにか持ってきた。緊張で動けなくなる。

 

 やっていることは一見いいことに見える。彼らは隙がない。でもうちの中がめちゃくちゃになる。

 

 

 いったいあれはなんなのだろう。彼らは大量の情報を詰め込みすぎて、自分達で訳が分からなくなっているようだ。そもそも宗教の勉強と、人に迷惑をかけるようなことをすることとは、なんの関係もない。

 

 まともなことと、そうでない反社会的なことを同列で語っているように見える。それがまかり通ってしまったのは、彼らの言っていることが、常識から離れているためではないか、と今思う。

 

 一度常識から離れてしまうと、なんでもありの世界になってしまう。物事の因果や道理がとんでしまう。

 

 結果として、どんなとんでもないことを言われても、なんの疑問も抱かずに受け入れてしまう人間ができあがる。ということではないか。

 

 そういうことを指摘しようとすると、彼らはごまかすか牙をむいて怒る。そこに弱点というか巨大な盲点があるようだ。

 

 もっとも怖くて指摘なんてできないが。

 

 それ以前に、親切なのになぜ、家庭内がめちゃくちゃになるのか? とか、

 なぜ、普通のおばちゃんが突然目をつり上げて訳のわからないことを言って暴力をふるい始めたりするのか? という素朴な思い、というか恐怖がある。

 

 そういうものを見てしまうと、人間に対する信頼がかなり傷つく。

 

 

 いろいろ書いたり本を読んだりして、それなりに整理できたと思っていたがそうでもなかった。

 

 いまだに緊張と恐怖で動けなくなる。これは大丈夫ではない。大変なことだった。そこはいまだに変わっていない。とてつもない困難の中にいる。

 

 もちろん食べ物がないとかそのレベルのひどさではない。

 

 だから、我慢しろ、というようなロジックは母によく言われた。

 

 でもそれは私が抱えている問題ではない。自分の問題に対処しなくてはなにも積み上がらない。

 

 考えてみると、もっとひどい環境にいる人間がいる・もっと大変な目に遭うから、我慢しろ、とか、言うことを聞け、という物言いは母や教団が使う理屈だった。

 

 あれは、思いやりを養うために使う言葉であって、他人を脅したり言うことを聞かせたりするために使う言葉ではなかった。

 

 その人にはその人固有の問題があり、他のものがいかに深刻であったり、立派に見えたりしようとも、自分の問題から離れてしまっては成長することはなかった。

 

 それにまわりにいた他人の問題を声高に叫ぶような人はとても無責任だった。あくまでまわりにいる人間だけだが。

 

 

 

 「それは、だからあなたも我慢しろという意味ではない」

 昔お世話になったカウンセラーに言われたことがある。学生時代の話だ。

 

 今になってやっとその言葉に意味が出てきた。言葉単体ではなんの意味もなかった。

 

 まともな人との出会いが解決につながっている。そういう人はとても貴重だ。

 

 我慢しろ、と言う人間は多いが、困っていることを、困っていると、そのまま受け止められる人間は少ない。

 

 「我慢しろ」がまかり通るのは、教育の成果だろうか。皮肉なことだけれども。

 

 

 そんなことを思った。本当に辛気臭いこまごまとした話だ。格好はよくない。

 

 でも、ここをクリアしないと先に進めなさそうだ。

 

 

 静かで安全な場所でゆっくり休みたい。

 

 いくら問題が整理されて賢くなったように見えても、依然としてこれが私の一番の願いだ。そこを覚えておかないと勘違いしてしまうだろう。