晴れ。穏やか。
ここのところ体調不良気味だったがようやく落ち着いてきた。
季節の変化を乗り越えるのが大変だ。
こういうことはもっと老人になってから言うものだと思った。
心はお子ちゃまのままなのに身体のほうはしっかりと年老いていく。
夢を見た
コンクリートで固められた入り江にいる。することもなくたたずんでいる人がたくさんいる。
私は誰かに協力しているのか入江で死体を探している。海水はあまりきれいでなくゴミもたくさんある。だが大きな魚がいる。
死体は見つからず移動する。誰かに話を聞きに行くのか。
場面変わってモノレールのような車両に乗って移動している。埋立地だろうか、さらに海側に移動している。
途中の駅で初老の男性が下りる。男性の娘らしき女性が乗ってくるが、なぜか男性も女性もお互いに無視する。
終点の建物で降りる。きれいな建物だが他には何もない。(終わり)
思ったこと
目が覚める。自分はこういう何もない海辺の土地が好きだ。昔のお台場とか若洲とかそういう場所。出かけられないので夢の中で訪れたのか。
最近読んでいる本
「書き換えられた聖書」(バート・D・アーマン著 松田和也訳 ちくま学芸文庫)
(いつもの通り読んでいる途中での感想です。体調不良や読むこと自体がつらい内容だったりでこうなってしまう。詳しく知りたいかたは本を読んでください)
新約聖書というのは最初からあの形だと思ったのだが、あちこちの文書や伝承を取捨選択してあの形になったそうだ。それまでは膨大な口語伝承や異なるバージョンの文書があったらしい。
しかも印刷技術がない時代の手書きによるコピーのミスや意図的な改ざんがかなり行われていた。初期にはそれがかなり頻繁にあった。
手が加えられる前のオリジナルというのはどういうものだったのか、そこに迫る専門の学問すらある。(”本文批評”という) これはそれに関する本。
自分からしたらそんな聖典?に手を加えるなんてとんでもない、という感覚だが当時の人にとっては当然のことだったそうだ。
自分たちの派閥に都合のいいように書き換える。話の筋道がちゃんと通るように書き直す。場合によっては話を付け加える。
今の聖書はそのバトルの結果、勝ち残ったものだ。非常に人間臭い話。
人間臭い。これはとても大事なことだと思った。うちの母の入信している教団(いつものようにここに戻る)は教団の文書をありがたがってただ棒読みしているだけだった。(いや、「だけ」のように見えた)
大変無機質な感じ。子供のころの自分は「こんなプラスチック(みたいな無機質なもの)が食えるか」なんて思ってやや馬鹿にしていた。大変いやな子供。(だけど必死だった)
(こういう態度をとるからひどい目にあったのかも。やっぱり性格がきついのかな。とはいえ性格的にダメなものはわずかでもダメだと思うので、このまま行くしか仕方がない。他人を傷つけてしまうのでなるべく口はつぐんでおこう)
やはり変わってしまうほうが人間らしくていいと思う。
だけど彼らの言うこともコロコロ変わっていただろ? どこが違うんだろう。
・・・そうか元の文献を自分の責任でちゃんと解釈しろ、ということだ。他人のくれる正解をうのみにしているのがまずかったんだ。
他人の言いなりになっているからいくら自分たちのやったことでトラブルが起きても彼らにとっては他人事で反省できなかったのだ。そうなのでは?
自分の身に引き受けて、というか自分の好み全開で読むから大量に違う意見が出てくるのは仕方のないことだったのだ。それが責任ある読み方だった。
真剣に読むから分派する、ケンカになる。そういうことだった。争いはいけないと思っていたが真剣にやるから争いになるんだ。そんなこと考えたこともなかったよ。
とはいえ門外漢の自分は絶対に正しいと言い張る態度よりも書き換えてしまう人間味のほうが好きだ。
テキストが書き換えられていることに気づいた書記が「阿保かお前は! 元のままにしておけ、勝手に変えるな!」という落書きが残ったテキストも残っている。(80ページ)
こういうの大好きですわ。
ああ、よかったあ。母の教団みたいな、命令通りに動く機械みたいな人間ばかりかと思っていた。本来はそういうものではなかった。あれは大量に同じものを複製できて世界中にそれがばらまけるようになった時代特有のものだろうか。あるいはリアルタイムで他人に指示を出せる時代のもの? 隙間や余裕が全くない。
やっぱり近代化された軍隊みたいだ。撃てと言われたら身内だろうが知り合いだろうが撃たなければならない。例外の入る余裕はない。ひどい話だ。
本の中とはいえ、血の通った人間がいるのがわかって本当に良かった。これこそ人間だった。(もちろんただの個人の感想です)