korenannan’s blog

関東地方某県に住んでいます。日々思ったことを書きます。時々放ったらかしにして期間が空くことがあります

大人になろうと思ってあれこれ考えていたら、それは人生の敗戦処理だった

 晴れ。

 

 朝晩は寒い。

 

 

      思ったこと

 鬱だ。動こうと思ってから実際に動き出すまでにかなり時間がかかる。

 

 

 いつものようにまた考える。宗教的な締め付けが厳しい地方ほど凶悪事件が多いと言う。不思議な話だ。

 

 そういった本を何冊か読んだ。(本ではないけれど「羊たちの沈黙」はとんでもない映画だ。どうやってあんな魅力的?な人間(というか怪物)を作り出せたのだろう)

 

 

 自分の中のろくでもなさなどの、自分にとって都合の悪いものを厳しく否定してしまうと、外見は立派な人間ができあがるが、人間的には未熟なままなのではないか。

 

 ろくでもないものも自分だ。そこを認めないといけない。自分の外側にそれを見つけて退治して、めでたしめでたしとか、否定して終わりとかではダメらしい。その先に進むことが大人になるということのようだ。

 

 親は自分の中のクズさとのつきあい方をちゃんと教えないといけない。クズの部分を否定して抑圧してしまうと、かえってクズさは純粋培養されるようだ。

 

 そういうことで起きるトラブルをまわりでたくさん見てきた。彼らはトラブルが起きてもヘラヘラ笑うだけだ。自分とは関係ないとでも思っているようだ。

 

 自分たちは絶対に正しい。だからトラブルは自分には関係がないということか。というかどうやって受け止めていいのかすらわからないようだ。

 

 絶対に正しい、と思うことと、だからトラブルが起きない、ということは何の関係もない。

 

 人間は誰しも自分が絶対に正しいと思うもの。でもトラブルは起こす。だからその部分の教育が必要ということか。人はトラブルを絶対に起こす。そういう風にできている。だから必要以上に罪悪感を感じたりする必要はない。そこをちゃんと言う。その上で次に進む。

 

 

 なんでこんなことを延々と考えているのだろう。これまでも結構書いているので、読んでおられるかたはいいかげん飽きてきたかもしれませんが。

 

 これまでの自身に起きたことをなんとかして受けとめないといけない。なんだかわからないけれどそうした方がいいらしい。そういうこと。

 

 何とかしようと思うことよりも、受容が大事らしい。

 

 

 

 自分たちは完璧だ、ということは失敗することやだらしなさへの寛容さをなくしてしまうのか。

 

 その非寛容で人を縛りつける。支配する。自分たちは絶対に正しい、信じないと大変なことになる、的なことを母の入信してた教団に言われたけれどもそういうことなのか。

 

 でも、今よく考えてみると、人間がいろんな目に遭ったり死ぬのは当たり前のことだった。教団関係ない。

 

 正しくもないし、絶対でもない。そういう風に世の中はできている。正しいとか、絶対が通るのは理屈の世界だけだ。

 

 生身の人間をそれで縛ってはいけない。可干渉の親の問題みたいだな。

 

 我々はまじめに厳しくやっているのになぜトラブルが起きるのか? 的な話を時々聞いた。でもそのまじめで厳しいのとトラブルが起きることとは根が一緒なのでは?

 

 なのに、ではなく、だから、だ。

 

 自分の中のトラブルが起きる部分の取り扱いに失敗した。ろくでもなさを過大評価しすぎなのがひとつの原因だと思う。叩いたり抑圧したりしすぎ。そこに罪の意識を植え付けさせることに成功すればコントロールし放題だ。

 

 ろくでもなさは困ったちゃんだけど、敵ととらえるのは間違いのようだ。敵としてとらえるとそこに暴力が生まれてしまう。

 

 あと、他人の正解を拝むからバージョンアップできなくなるんだ。

 

 

 お前ずいぶん偉そうだなって? そんなんじゃない。

 

 敗戦処理みたいなものだ。人生の敗戦処理。これは絶対に必要。鬱になるけど。

 

 

 なるほど、読んで面白いものではないな。