korenannan’s blog

関東地方某県に住んでいます。日々思ったことを書きます。時々放ったらかしにして期間が空くことがあります

理屈よりも生きることそのもののほうが大事。(で、どうする)

 台風が去った。

 

 これからはこのクラスのものがどんどん来るのだろうか。

 

 対策できるのか?

 

 

 

 安倍元総理の事件から、カルトについての動画や本を追っている。

 

 探してみるとたくさん出てくる。まさかこんなにあるとは思わなかった。

 

 

 ある漫画を見つける。

 

「カルト宗教信じてました。」(たもさん著 彩図社

 

 母親の影響で、とあるカルトに入信していた作者の自伝的漫画。

 

 読む。

 

 作者が教団から距離を置くきっかけになったのは、子どもの病気だという。

 

 この教団は輸血ができない。作者はそれまでもおかしいと思っていたが、この出来事がきっかけで距離をおくことになった。教団の都合よりも子どもの治療に専念した。そして治った。

 

 母親にとって(作者は女性)子どもとのつながりはかなり強烈なものらしい。そのつながりが教団の教えに圧倒的な違和感をもたらして、そこから離れるレベルのパワーを与えたのかもしれない。

 

 そして旦那(元?信者)という味方もいた。

 

 これは勝手な推測だ。それに個人差もあると思う。うちはダメだった。手遅れだった。

 

 宗教が必要な人もいる、と言う人もいる。一般論ではわかる気がするけれども、それでもやっぱり実感として普通のおじさん・おばさんが理屈を振り回して子どもを手にかけるのはおかしい。

 

 人間以前に生き物としておかしい。何故なんだと思う。

 

 一般論とこれをごちゃ混ぜにして考えてはいけない。

 

 

 人間はいい加減にできている。おかしな理屈やプログラムを入れてもそれなりに生きていけるようにできている。

 

 だから逆に絶対的な正解などない、ということができるのかもしれない。

 

 理屈よりも、生きることそのもののほうがずっと大事。

 

 どうすれば生きやすくなるかは、一人一人違う。

 

 だから他人に自分の理屈を強制して生きづらくさせることはおかしい。

 

 

 そんなことを思った。

 

 

 今回の本は個人的にかなり重い。かなり鬱になり、動きづらくなった。

 

 

 それとは別に、理屈も大事だけど、このレベルのトラブルが目の前で起きたらどうしたらいいんだ、というのもある。

 

 実感としてどうすればいいんだ、と思う。力がなかったら妥協して生き延びなければいけない。それが”恥”の感覚として残る。

 

 生きていることが恥になる。最低だ。

 

 それでも生きる。無理をすればそれだけボロボロになる。そうすると信者どもに「あいつは信じないからこうなる」などと言われたりする。

 

 彼らは自己都合で凝り固まっている。自分のやっていることが相手に害を与えているなんて思いもよらない。

 

 他人はお前の頭の中で生きているのではない。

 

 

 味方と安全な場所がほしい。

 

 でも団体行動苦手だし、他人の言うことなんて聞かないじゃん。自分一人で考えることが私の生命線みたいだ。