雲が多い。
台風が過ぎたあとだからか。
台風一過とはならない。
いろいろとおかしい。
思ったこと(やや暗い内容。話が右往左往します)
昨日はあんなことを書いたけれども、やっぱり人間の問題だと少し冷静になる。
”悪魔”といってしまったら、具体的ななかみが見えづらくなる。
(いろいろと偉そうなことを書いていますが、そうしないと問題に切り込めないのでこうしています。別に特定の個人などを中傷するためのものではありません。こうしないと議論ができないからです。悪意や害意はありません。
そうか議論の前提というものがちゃんとあるんだな。そこをわかっている人間でないと議論には参加できない。そうでないとただの悪口合戦になってしまう。よく見る光景ですが。参加するにはやる気だけでなく前提を共有して守る必要がある、こういうことか)
閑話休題。自分が疑問に思っていることって何なのだろう。
母親や母親が入っている教団って一見まじめで親切に見える。
実際そういうところもある。それでずいぶん助けられた面もあるし。
で、なんであんなシャレにならないトラブルを起こすのか。そこが疑問だ。私も脅されていたし。
彼らは笑いながらやっていた。なぜだ? 脅している、迷惑をかけているという自覚がないのはなぜだ。
彼らの言っていることにはほぼ脈絡がない。教団の集会で話していることもそうだ。ただ、なんとなくノリでその場で格好よくまともに見えることを話している。指摘されるとすぐに引っ込めるかごまかす。
教団も過激なことを言うが平気で撤回してまた当然のように別のことを言い出す。普通に考えたら信者がふざけやがって、と怒り出しそうなものだがなぜかそうならない。
トラブルだってそうだ。普通ならカンカンに怒るやつが出てきてもいいはずなのだが、迷惑をこうむったはずの人間ですら逆に教団を擁護する。(日本だけの問題なのか?)
となると、内容の問題ではないのか。ただ、皆で集まってワーワー言いたいのかもしれない。そういう場が欲しい、居場所が欲しいということか。それがなくなられたら困るので擁護する。そういうことか。
それにしては被害がでかすぎる。
ここで自分の問題に飛びますが、私は算数すらろくにできないのに理系の大学に行ってしまい、ひどい目にあいました。教官にも迷惑をたくさん迷惑をかけたと思います。今思い出しても頭を抱えます。
「実力はないけどいい格好したい(しなければならない)」、シンプルにまとめてしまうとこういうことでしょう。(実際はもっと複雑でしたが)
これがさっきの話とリンクしている気がします。どこかから立派な言葉を切り取って借りてきて、それでものすごく立派なことをしてる気になる。文脈や言った人の立場は完全に無視です。
話が飛躍しますが、もしかしたら、現代というのは全員がものすごく高度なことを要求されているのかもしれません。それで落ちこぼれてしまう人間が大量に出てきている。(私もそれか)
そういう人の受け皿としての宗教。別に信仰とは何か、とか神学的問題とか難しい話はどうでもいい。それで発言内容は問題にならないのか。
それでも格好をつけなければならないのでいろいろと立派な人の発言のコラージュを作る。
シンプルな信仰に戻るのならそれだけでいいと思うけれど、格好をつけ始めると途端におかしなことになる。信仰でなくて団体の問題? 器の問題?
問題はそれで勘違いする人たちが出てくることだ。言いなりになってしまい、あれこれ迷惑をかけ始める人たちが出てくることだ。
もちろんこれは個人の妄想で実際に生きている人たちとは関係がないです。自分が子どものころ見た風景の中には貧困の問題や旦那に暴力を振るわれた人などが来ていました。これは教団だけでなく、精神科のクリニックなどでも見る風景でした。
そういう人たちの居場所になっている。ただ、それでも暴力を振るわれて困っている人に指示をしてまた暴力を振るわせたり、トラブルを起こさせることになるのはなぜなのだろう。という疑問は依然として残ったままです。
そんなことを考えました。
(当人たちはそんなこと考えていない、というのが答えのような気がしますがそれではあまりに身もふたもない、というか実がなさすぎる気がします)
(本来はその資格がない人には参加する資格はない。だけどそれでは私も含めて生きていけない。社会も回っていかない。まとめてみるとこんな感じだろうか)