晴れ。
風がものすごく強い。
これで台風でないとかどうなっているんだ。
低気圧に変わってからさらに発達するとか
イレギュラーなことが多すぎて疲れる。
思ったこと
また考える。経験や興味をまとめるために考えています。これはそういうブログ。
最近読んでいる本によると紀元後のオリエントにはキリストの影響を受けた宗教が大量に出てきたらしい。
自分の中のイメージでは最初からカソリックがドーンとあってそのあとでプロテスタントが出てきたくらいのイメージだった。正教やコプト教のことは知らなかった。
だけど実際には旧約と新約をどうつなげるかなどの解釈の違いで相当異なった宗派?があったらしい。特に中東のほうにはイマジネーション豊かな教えがあったようだ。
でもなんでそこから我こそが正統だ、みたいにまわりを袋叩きにするような動きが起きたのだろう。
そもそもさ、キリストって人間じゃだめなの? 復活した話すら初期には一般的な話ではないというし。
(まったくの素人が本などの聞きかじりで書いてます)
なぜなのか知らないけれど統一した教えを作る必要があって、そのためには言葉で説明しなくてはならない。だから、復活とか三位一体とかそういう理屈?が出てくるのか。辻褄をあわせないといけない。かなり人間臭い話。
発達してきた言葉のために統一した教えを作る必要があったのかな。
言葉の問題というのがものすごくあると思う。言葉はスカスカだ。どんないい加減なことでも言えてしまうし(言葉にしたら”ある”ことになってしまう)、いったん言葉にしてしまったら文脈を離れて独り歩きしてしまう。
詩的表現やその場を切り抜けるための詭弁が「素晴らしい立派な事実」として扱われてしまい、その「事実」を信じないからといって他人を殴りだすやつが現れる。そんなことが起きるような気がする。素晴らしい立派な額縁って誰が必要としたの?
言葉にした瞬間、誤解する可能性が生まれてくるということか。だったらやっぱり学問として宗教を扱うことは必要なのでは。言葉になったものをノイズを減らしてなるべく元に?戻してやる作業。
なんか適当なこと言っているな。でもそう考えるとむやみやたらに拝むことはダメじゃん。
まあ自分はクリスチャンではないのでなんともいえない。
信仰を持っている人には失礼なのかもしれないけれど、心のどこかでただの人間が欠陥だらけの言葉を使ってやったことだと冷めた目でみておかないといけないと思う。そうしないとシャレにならないトラブルが起きると思う。
(これは個人の妄想です。夏だし)
自分にとっては言葉が不思議すぎる。そっちに興味がある。
私個人の経験で母や母の入信している教団信者の独特の言葉遣い(相手をひっかけるのに特化しているように見えた。いや話しているその人自身すらその言葉にひっかけられていた。高度な自己欺瞞)や暴力など本当に恐ろしいものを見たので私自身が信仰を持つことはないと思う。
立派に見せるとか、素晴らしいと言わせるとか、統一とか、暴力の臭いがする。