曇り。
一昨日に2回目のコロナワクチンを打った後熱が出て昨日は寝ていた。
今日になって熱は下がったが身体中が筋肉痛だ。
熱でぼんやりしていたせいかワクチンを打ったのが遠い昔のことのようだ。
思ったこと
最近思ったこといくつか:
いくらまわりからずれていても、自分がおかしい・間違っているということにしてしまってはいくら努力しても何も積みあがらない。自分の経験から来た実感を言葉にしてみると、いくら世間並みの人間になろうと努力しても無理だった、ということだ。これは一つの欠陥でもある。
しかたがないから自分の視点で見る。これは結構きつい。世の中の常識とかいう便利なツールが使えない。
これまでのブログでさんざん書きましたが私は親が入信している教団に散々迷惑をこうむりました。そのことであれこれ考えましたが、そもそもこっちが迷惑をこうむっている、あちらが他人に迷惑をかけて平気な顔をしている、という時点でアウトだった。
信仰やら宗教の内容を吟味しても仕方がなかったことなのだと最近になって気づいた。土台からダメだったらもうそれ以上進んでも仕方がない。理屈なんて何とでも言えるし。
それでも宗教についてなどあれこれ考えなければいけない必要があったのはあちらとこちらの力の差が歴然としていたからだ。あちら側の文法?で考えないと聞いてすらもらえない。
そうでないと迷惑だからやめてくれ、という当たり前のことすら言えない。身の危険もあったし。それに私はその環境で育った。ある程度のベースがあちら側の理屈でできていた。不愉快なことだが。
まったくもう。植民地で育った人間かよ。
実際のところ母も母で大変だった。介護が必要な人を二人も抱えていたのだから。ただ、相手も大変だった、というのはすべてのことが済んで問題が解決した後からでいい。
それまでは余裕がないし、思いやりが大事とかいってむやみやたらと相手の都合を考えて問題が何なのか、問題はどこにあるのか、ということが分からなくなるのは避けたい。こういう突き放した考え方を罪悪感なくできるようになったのはつい最近のことだ。
大学の一般教養科目で取っていた倫理学の授業。私が学校で褒められたのは後にも先にもこれだけだった。提出したレポートに赤ペンで「よく考えられている」と書いて返ってきた。
課題図書について批判や分析をしたというよりは、それにかこつけていろいろ思いや不満をぶつけただけだった。「ふざけんな、バーカ」とかそんな勢いだった。それで褒められるとは思わなかった。
大学の教授に褒められるという体験は素朴にうれしいし財産になる。
一つの事をしつこく考え続けるという私の性格がこういったことに向いているということだろうか。