晴れ。かなり寒い。
週末はまた暖かくなるらしい。
読書しながら日に当たる。とても気分がいい。読書よりも日光浴のほうが重要なのではないか。
昔の老人のイメージで縁側で日向ぼっこというのがあった。若かったころはよくわからなかった。枯れる、とはああいうことなのかと漠然と思った。
齢を重ねた今思う。日光浴はかなり官能的だ。これは身体が弱らないとわからないものなのかもしれない。彼らはこんな体験をしていたのか。
「神学・政治論」(上・下 スピノザ著 吉田量彦訳 光文社古典新訳文庫)をさらに読む。スピノザは神から人格的なものを取り除いてしまったという。この世界すべてが神といった感じ。(私の理解はかなりざっくりとしています)
人格ってなんだろう。あれをしろこれをしろと言ったり、言うことをきかないと怒って抵抗できない圧倒的な力を見せつけたり、とかそういうことか。
自分のまわりにはそういう人たちがたくさんいた。またその話か。でも自分に関係ない議論は意味や重みがない。そういう議論はいくらしても全く賢くならない。それに私はそのことで本当に困っている。
スピノザはそういうところから信仰を解き放ってしまったのかも。誰かの言いなりになるのではないありかた。これ、あってるのかな?
個人の行いのほうに信仰を求める。隣人愛。よく生きる。そういうことでいいのかな? 漠然としすぎているけれども。
私はクリスチャンでもないし、その流れの中にはいないのだが。それでも暴力的なことを言う人たちがまわりにいて困っている。
スピノザは信仰と哲学は全く別のものだ、と言おうとしたらしい。そう言うことで何とか思想する自由を確保しようとした。でも”別”と言ったって一人の人間の中ではそうそう切り離せるものでもない。
どう生きるか、っていうことなのかな。
もしかして生きているだけでよかったのかもしれない。言うこと聞かないととんでもない目に遭うとか、言うこと聞くと幸せになる、とかそんなこと信仰とは関係がなかったのでは。信仰は現世利益や罰とは関係がない? ただよく生きるだけだ。っていうこと?
よく生きる。ということが大事だったら、言うこと聞け、とかそういうことは大変な呪いなのではないか。そう思った。何かの存在におびえないで生きるということ。
そう思うことで子どものころから抱えて込まされてきた”信仰”という問題に対して一応の結論が出せたと思う。というか強制を伴って教えられた”信仰”という言葉の居場所が見つかったような気がする。やはりこういうことははっきりと結論を出さなければいけない。
というか、”よく”なんて言わないで、生きているだけで十分な気もしてきた。存在そのものが神に対する賛美になっている、という人もいるし。これはやや言い過ぎか。
これで母親や彼女が入信している教団のくびきからある程度逃れることができた、と言えるのかも。正直だいぶん楽になった。
人格神・宗教団体・過干渉の親・DV
頭の中が中世から抜け出せた? スピノザの意図がどういうものなのかは詳しくわからないけれども、ともかく助かった。
わからないからといって途中で放り出さないでよかったよ。
読んでいる人は話が錯綜して訳が分からないかもしれませんが、整理してしまうとこっちが分からなくなる。実感から離れてしまう。だから読みにくくなっています。
賢くなったのはいいけれど、なんだかモヤモヤする。なんだか他人の尻拭いをしているみたいだ。子どものころは仙人とかああいう存在になりたかったんだよなあ。もうよくわからんことになっている。