曇り。蒸し暑い。
暑さのダメージが身体にもたまってきているのか
たいした気温でなくてもものすごく暑く感じる。
思ったこと
これまでのブログでずっと自分に起きた問題について考えてきました。かなり個人的で暗めの話です。その中でいくつか分かったことがあるので自身のためにまとめてみることにします。
(厳密な話ではないのでだいたいで聞いてください)
(その1)人間は自分が絶対に正しいと思っている。
母や母の入信している教団に精神的・物理的にかなりひどい目にあわされてきました。なんであんなことをするんだろう。とずっと考えました。宗教とはああいうものだ、という人もいますがそれではなにもわからない。
彼らはいくら人に迷惑をかけても自分たちが絶対に正しいと言い張る。そこがおかしいと思った。だけれどもいろいろ経験して考えた結果、人間とはみな自分たちが絶対に正しいと思っている、という結論に達しました。そこは否定してはいけない。否定しない人間のほうが強いし成功する。否定したら病気になる。(私みたいに)
(その2)その正しい、というのは自分の中のただの考えにすぎない、というのも事実。
頭の外の世界はそういう風にはできていない。その正しい、はひとりひとり違うしそのひとりひとりの「正しい」も気分などの(しょーもない)条件でコロコロ変わる。
そこに気づいてちゃんと押さえないと他人と衝突してもめることになる。それが大人になるということか。
(その3)だからしつけが必要。
自分が絶対に正しいという思いはものすごく強力だ。
だからそれで他人とトラブルを起こさないようにする必要がある。
他人に迷惑をかけてはいけませんとか、他人の領分に許可なく踏み込んではいけませんとか、そういうしつけは必要だった。このしつけのせいで人間が委縮してしまうという話もありますが、これがわからない人たちに多大な迷惑をこうむった自分はやはり必要だという結論に達しました。
(その4)他人のアイデアは参考にしてもいいが絶対だと思って信じたり鵜呑みにしてはいけない。
それは依存という。外からのフィードバックが効かなくなる。だから他人の声なんて届かなくなる。
(その5)自分のくだらなさなどの弱い部分に気づかないと人生がとてもつらくなる。
その正しいというものの中身はコロコロ変わってしまうので絶対とかそういう類のものではない。絶対だと思うとそこを守るためにまわりと大喧嘩をしなくてはならなくなるし、(こうあるべき)絶対的な自分を設定してしまうと、そこから自分が離れてしまうことで自分を責めることになる。
もしかしたら、彼らはその葛藤を回避するために自分たちが絶対に正しいという部分をそのまま残して、それはなぜなのかという理屈のほうをコロコロ変えているのかもしれない。でもそれでは自己欺瞞が高度になっているだけだ。理屈が立派なのでまるで立派なことをしているように見えるけど。話に筋道がまったくないし、そもそも話の前提からしておかしい。
そこまでして守るものなど存在しない。私も苦しめられたがあれはフェイクだった。いまだによくわかっていないが。
何を信じているとか理屈や話している内容以前の問題だったのか。
理屈や絶対的な真理が”ある”と思うから引き起こされる苦しみ。一生懸命考えたけれどこれもただの言葉だ、と突き放す。そういう態度が”正しい”ようだ。世界は言葉では説明しつくせない。はじめから無理なことをしている、そういう態度で臨むのが”正しい”ようだ。そこを理解したうえで話さないとトラブルになる。
これくらいでやめる。理屈なんていくらでも作り出せるので、話しているうちに自分が迷子になり訳が分からなくなってしまう。
どうやらこの世界や自分自身の在り方に対する理解の欠如が問題を引き起こしているようだ。信仰や理屈は世界や自分を理解したその上に築くのがよさそう。(大規模で人に迷惑をかけるとかそういうのでなければ、もっと素朴でいいと思うけれど。大っぴらでなくこっそりやる)
こんなことを考えた。
大人になるって大変だ。だけどちゃんと大人にならないと話し合いすらできない。お互いにワーワーギャーギャー大声で言うだけで終わってしまう。