晴れ。
空気は冷たいが日差しがかなり暖かい。
確実に春は来ている。
風呂掃除、洗い物、洗濯、部屋の掃除、とやったところで動けなくなり休む。
疲れがたまっている。母もだいぶん疲れている。
父はだいぶん快復してきた。こういうとき怖いのは、元気になってきた父が消耗している家族に、心無いことを言って家族の心を折ることだ。
そういうものをいやというほど見てきた。用事があるとき以外は父に近づかないことにする。
父の看病でいくつか気づいたこと:
「片づかないから、早くして」
昔からよく聞いた言葉だが具体的にどういうことなのか少しわかった気がする。
それは、いつまでたっても自分の用事ができない。自分のターンにならない。ということだった。(今はターン制のゲームは少ないか)
他人のケアで自分がおろそかになる。これはうちのテーマだと思う。
他人のケアをすることが、あまりにも立派なことだとされてしまっているため、問題にしづらいのか。
自分のケアくらい、なんて思っていたが、かなり重要な問題だった。
"くらい"、程度に思っているから自覚するのがかなり困難だ。やりかたもよくわからない。なんとなくうまくいってるから別にいいや、という感覚か。
考えてみると、うちの人間は他人のケアというか、外向きの関心ばかりあるような気がする。かつてたてた手柄をベラベラしゃべったり、他人にもらったものを絶対に正しいと言って、押しつけたり。
それで言ったことを覚えていなかったり、責任を取らなかったりする。
"自分"はどこに行ってしまったのか。
思い出す。
昔調子をくずしていたときにお世話になったデイケアでも、他人とうまくやることは、かなり重点的に教えられたが、自分自身のケアについてはほとんど教えてもらえなかった。
むしろ、自身の問題について考えることはよくないこととされていた。そんなこと考えてどうするの? という風に言われることが多かった。
人間は社会の中で生きているから、それは重要だけれども、これでは根本的な解決にならない。
それとも他人はその程度のケアでなんとかなっているのだろうか。
わかりやすい大きな問題を、なんとかできたらそれでOK、とかいうシンプルな話なのか。
「要素が多すぎる」と、カウンセラーは私の話を聞いてさじを投げた。そんなことがあった。プロがさじを投げるレベルの問題の複雑さだったのか。
書いていて今気づいた。ありゃギブアップの宣言だったのだ。だけど、こっちはギブアップするわけにはいかない。
もっと問題を細かく見ていくしかないのかもしれない。他人から見たら馬鹿馬鹿しいと思われるレベルまでやる。やや狂気を感じる。
トラブルを抱えてしまったら、元に戻ることはできない。新しい"筋"を見つけるしかないようだ。
これまでは、努力や治療である程度元に戻れるのではないか、と思っていたが、どうもそれはなさそうだ。世間の常識とは違う世界にいる。
そう思い始めた。