曇り。
今日は寒い。
暖かくなってきて身体が緩んでいるので
風邪をひかないように注意しないと。
今の時期、調子が悪くなったら風邪なのか花粉症なのかコロナなのかわからない。
要素が増えすぎだ。
夢を見た
朝、自室で寝ている。もう8時半だ。今日は出かけなくていいことに気づきホッとするが、ゴミ出しをしなければいけないことに思い至る。
なんだ、結局起きないといけないのか。(終わり)
思ったこと
起きる。とっととゴミ出しに行く。夢の中よりははるかに早い時間に起きた。
考える。前回のブログで大学で難しいことを勉強している人ってどんな感じなんだろうと書いた。
難しいこと。難しいので複雑になるのかと思っていたが、ものの見かたを偏らせて偏らせた分野に集中して考えている。現実世界からどうやって問題を言葉で切り出してくるかという話らしい。
そこを勘違いしていた。というかわからなかった。現実世界を現実世界以上に複雑にはできない。変な言いかただ。
そして、集中するにはそれができる環境が必要だった。自分だけの時間と空間。まわりが出すノイズに気を散らされたり、まわりの要素に振り回されているとできない。なんだかヴァージニア・ウルフみたいなことを言っている。鍵のかかる部屋。
しかもやっかいなことに集中が大事だ、ということはある程度集中できるようになってからでないとわからない。これはジレンマだ。最初は誰かがお手本となって教えてくれないと無理だ。あるいは偶然か。だけどそれはとてもまれだと思う。
今の自分がある程度それがわかるようになったのは、セラピーを受けたこともあるが、それよりもトラブルの要素が減ったことのほうが大きい。
まるで他人のせいみたいだ。だけれども、これが偽らざる実感だ。そこは押さえておかないといけない。
集中力というのは身を守る盾にもなるらしい。それがないと社会に出たときにボロボロになる。小学校の時点ですでにそれが必要になる。いや保育園や幼稚園からか。
人間の集団の中に放り込まれたときに必要。となるとそれ以前にできていないといけない。理想論だけど。
で、それってなんだ。あれをやれ・これをやれというのとは正反対な気がする。それこそ集中力を削るノイズだ。
むしろやりたいことをやるのを放っておいて、遠目からみてくれている。やっていることを邪魔しない・させない、そんなイメージ。これって結構難しいのかも。手は出さないけどその場にいなければいけない。目配りか。子どもを見守るライオンの親みたいだ。
自分の子ども時代を思い出してみる。まわりは手は出すけれどお前がどう思っているのかなんて知らねえ、こっちも大変なんだよ、とか、好き勝手に自分の都合をねじ込んでくるやつ、とか、うわごとみたいな訳のわからないことを言う人間など、常識で考えられる以上の混乱を叩き込まれた。
そんな環境では集中力は身につかない。結果ボロボロになった。昔カウンセラーに童話「3匹の子豚」の藁の家の話をしたがそんな感じだ。
今になって当時のことをまとめてみるとそういう風になる。RPG風にいったら剣も楯も装備せずに過酷なステージにのぞもうとしたということか。しかもゲームと違って人間が上げられるレベルは常識の範囲内だけだ。個体差もある。
当時どころかつい最近までテストの点数や学力さえ何とかなればいける、いけたはず、と思ってきたが、それ以前の問題があった。そこの部分を自覚するのは大変に困難だ。”普通”の人にとっては当たり前のことであるし、テストみたいに点数で出てこない。
自分の子ども時代の環境でそういったものを望むのはかなり酷なことだ。そう思えて少しだけ自身の子ども時代と和解ができた気がする。
追記:今の子どもたちは、はじめからネット環境も整っていて、私の子ども時代よりはるかに他人の都合や外側のノイズに煩わされることが多くなっていると思う。
そんな状況で集中力を養うのは至難の業なのでは、と少し心配になった。