晴れ。
湿度が高い。
夢を見た
電車に乗っている。早朝だろうか。薄暗い。
学校に向かっている。他にも数名同級生がいる。
途中で乗り換えて最寄駅で降りる。ここからさらにかなりの時間バスに乗らないといけない。
バスの急行を走らせて欲しいよね、と同級生に言う。(終わり)
思ったこと
目が覚める。大学生時代を思い出す。遠距離の通勤通学はダメージが蓄積し続ける。これが教訓。
急行というか直行バスがほしい。確かにそうだったな。
だけれども、自分が大学生だった時には独特の罪悪感があった。そんなことを言ってはいけない、といった風な。
それどころか、何故か存在すらしてはいけない気がした。文句ばかり多くワーワーギャーギャー騒ぐだけの存在。
でも今は思う。その罪悪感の大部分は、自分がしなければならないことが別にあって、それをしていないためだった。
(若者が騒々しいのは当たり前)
それらにボンヤリとでも気づくにだいぶん時間がかかってしまった。
しなければならないこととは、進路の問題だけではなかった。家族の問題や健康の問題など。
そういったこと。プライベートなことは犠牲にしなければならない、とどこかで思っていたようだ。
だけど、そのプライベートなことが基礎になって人間はできている。問題のない人はそのことを自覚すらしていないかもしれない。
さらに当時のことで反省すべきこと。病人は病人らしく休むのが仕事だった。
うちが問題だらけで自分の都合が入る余地(これがプライベートだった)が、なかったのもあるが、このくらい大丈夫、とかこの程度とか、言ってはいけなかった。
ちゃんと、堂々と休む、サボる。そうすることで変化する余地ができるらしい。
自分やまわりが、こうしなければいけない、こんなことをしてはダメだ、と言うことは想像以上にダメージを与えた。
サボる、だけでなく、環境が悪かったら、ちゃんと荒れる、とかも必要なのかもしれない。
症状?としてちゃんと出す。ちゃんと"それ"を生きる。
病気で自覚症状がないと、気づかないままどんどん悪化してしまう、という話をよく聞くけれども、この場合このたとえがピッタリな気がする。
問題を自覚する。症状として出す。堂々とサボる。それに罪悪感を持たない。
そういうことらしい。
それとは別に思いだす。そうは言うものの、それを実行することに対して、まわりの圧がとても高かった。
こんなことに圧をかけまくれば、結果的にまわりまわって自分の首を絞めることになる。
どういう理由なのかわからないけれども、はじめから自分もまわりの人々も余裕がなかった。
どうでもいいことは本当にどうでもいい。そう思って切りすてないとやっていけない。