晴れ。朝は曇っていた。
このくらい寒いと曇りのときの迫力?が違う。
身の危険を感じるほどの寒さ。
朝起きる。母はまだ起きていない。珍しい。
雨戸をあけて新聞を取り、湯を沸かす。
母はまだ起きてこない。様子を見る。
母はぎっくり腰になったらしい。
久しぶりに味噌汁を作る。食事をベッドまでもっていく。
結構元気だ。とりあえずホッとした。
父が起きてくる。相変わらずのマイペースだ。いいのか悪いのかわからないが大騒ぎしないでくれる。そこは助かった。
一通り終えて買い出しに行く。歩く。一息つく。どこも年末の空気だ。
大通りはバイクや車がたくさん。それを眺める。ガソリンスタンドでは洗車待ちの行列。皆年越しの準備に忙しい。
そういったものを見ていたらだいぶん和んだ。出てきてよかった。
駅までくる。・・・信者たちの団体がいる。久々にこんな量を見た。それを見たら一気にメンタルの状態が悪くなった。
駅のどこに行っても大量にいる。逃げ場なしだ。
具合が悪くなったので必死に考えることにする。そうすることで何とか自分を守っている。せっかく頭を空っぽにできそうだったのにあんまりだ。
彼らは何かやらかしたことをごまかすために権威や親切などの言葉を使う。ということは何かを信じるとかそれ以前の問題がある。
だけれども、立派な言葉のせいでそれがごまかされてしまう。
親切や善行をひけらかしたり自慢することは、たいていの宗教や道徳でNGとされている。それは傲慢になることを避けるためと一般には言われている。
でもそれだけではなく、親切や善行などの”正しさ”を前面に出して自分の意向をねじ込んでくる人間がいる、善行の仮面をかぶることで自分の行動について省みることがなくなったり、批判を封じることができる。などの問題があるようだ。
(まったくどこかの国みたいだ)
親切を取引の材料にするやつら。親切を損得や快不快を基準にして行ってはいけない、ということだろうか。”ええ格好”に騙される。やる側もやられる側も。
言葉や理屈よりも具体的に起きているトラブルや迷惑を見る。
何かをやることよりも、それをやったことで起きた問題の後始末のほうが数倍も大変だ。だから考えて慎重にやらなければいけない。
まったく、暗い話だ。こんなこと、普通だったら考える必要もなさそうなことなのに。
だけど、安部元総理の事件が起きた。そのおかげで自分みたいな人間がたくさんいることがわかった。幸か不幸か。(団体は違うけれど)
そういう人たちがたくさんいるということは、どこかで真面目に考えなければいけないのではないか。
・・・あれ? なんでやられた側でなくて、やる側やった側の立場からものを考えているんだ? 被害を被ったのだからちゃんと被害者面すればいいのでは?
よくわからん。それでいいのか?
(まあ、でも、生きていること自体に正しいも間違っているもない気がする。ただ生きている。それでいい。というかそれしかない)
買い物を続ける。最近はどこもセルフレジ・集中レジで店ごとの垣根がなくなっている。それで広いフロアをさまようことになる。店ごとの店員さんが減ってわからないことを聞きづらくなった。
さっきの出来事があったせいもあり、頭の中がボーッとして霧がかかったようになり、ますますどうしていいのかわからなくなる。
もう、店での買い物は無理か? なんて悲観的になる。引退宣言かよ。
「体力の限界」なんて言った関取の言葉が浮かぶ。貴花田に負けた千代の富士だったか。
・・・鬱に突っ込んだ反動でちょっと躁になっている。気をつける。
スーパーで商品を買った人に手ぬぐいを配っていた。自動的に受け取ったがもうこれ以上の刺激は入らない。お礼も何も言えなかった。嫌なやつに見えただろうか。
ちょっと、気分転換のために外に出たのにこれではあんまりだよ。とっとと帰る。
立ち食い蕎麦屋で昼食。とても楽。お店はこれくらいのシンプルさであってほしい。(紅ショウガ天って、たこ焼きみたいだと思った)
今年のブログはこれでおしまいにします。最後の記事もとりとめのない感じでしたが。
本年もお世話になりました。暗いことや鬱になることばかり書きました。
今年は世の中事件やイベントがたくさんありすぎました。来年はもう少し静と動のメリハリが欲しいです。
来年の自分はもう少し遠くに行きたいです。それ以前に重たいものを抱えているので、そちらの整理がさらにできればいいなと思います。
味方が欲しい。けれどもいっぱいいっぱいなのでこれ以上要素が増えるのもきつい。(助けてやるから言うことを聞け、的な人間はもういらない)
こんな感じですが、来年もよろしくお願いします。ではよいお年を。