晴れ。
花粉が大量に飛散する予報。
夢を見た
早朝。駅にいる。学校に向かう途中。
他にも同級生が数名。今日はテストらしい。
時刻表を見る。早朝の電車を逃すと次はだいぶん時間があく。
電車は来ない。何かあったようだ。しばらく待つと来る。
来た電車にはすでにテストを終えた学生が乗っていた。
「あの問題は気をつけたほうがいい」と彼は言った。工学系のテストらしい。それを他人事のように聞く。
電車に乗って学校に着く。遅刻かと思われたが、大丈夫そうだ。電車の遅れのためか、テストの予定も変わってしまった。
控え室?から廊下に出て試験会場の教室に移動。用心のため荷物をすべて持っていく。
途中の廊下に試験官の先生がいた。なぜ試験官がここにいるのか。先生はテストについてあれこれ話す。(終わり)
思ったこと
目が覚める。またテストの夢だ。学生も先生も、そして私もよそよそしく、どこか他人事のような態度なのが気になった。
学生時代を思い出すと先生も学校の制度の文句を言うが、当事者としての発言は少なかったような記憶。他人事のように批判してた。
考えてみればそれは不思議なことだ。皆忙しく必死だった。(でも他人事)
余裕がまったくなかった。皆何だかわからない巨大なシステムの構成要素として存在していただけのか。
それがあまりにも当たり前だったので、疑問にすら思わなかった。
ばかでかく、もうスピードで動く何かに(何かの一部として)必死に対応していた。
そこから離れてだいぶん時間が経って、やっとその事に気づけるようになった。
心のどこかで気づいていたのかもしれない。だけどあまりに巨大で漠然としていた。どうにかなりそうもない。だから他人事のようにしゃべっていたのか。
勉強は好きだけれど、もうあんなのはごめんだな。
ニュースで宗教団体の問題がさかんに取り上げられている。
”信仰の強制は虐待にあたる”など、厚労省が言うようになった。
うちもいろいろとトラブルがあった。だからこの変化はいいことだと思う。だけどあまりに急激なので、かえってとまどっている。どうなるのだろう。
母の入信している団体ではどうなんだろう。何か内部で通達はあったのか。
母の発言を聞く限り、そんなことはなく、ニュースではじめて知ったというレベルのよう。
当事者はこんな感じなのか。むしろ我々は関係ない・我々は誤解されている、というスタンスのようだ。
実際にトラブルが起きていて、迷惑をこうむっている人間がいるのに、これはどうしたことか。
他人に迷惑をかけて平気な顔をしている時点で論外。何を信じているか以前の問題。
だが実際はそうはなっていない。信仰や教義がやっていることを正当化している。
我々はこんなに素晴らしいことをしている・我々は正しい、それ以外のことは見えなくなっている。
だとすれば、やっている側が良心の呵責を感じずに行動できるようになるため・やったことの責任を取らなくてすむために、信仰や教義、聖典が利用されているということか。
それを意図してやっているかどうかはわからない。だけど本末転倒というか、悪用だ。
我々は崇高な目的のために活動している、彼ら(敵)は人間ではない悪魔だ、(だから我々は彼らを撃っていい)という戦争時の新兵教育の時に使われる方便と同じ効果があるのか。
そしてそれはとても効果的だ。これまで目の前でまざまざとそれを見せつけられてきた気がする。
「良心のない知識は魂の荒廃」とはこういうことなのか。言い訳のために立派な言葉が使われている。謝りたくないための方便。
他人に迷惑をかけなければ何をしてもいい、それは皆に与えられた権利だ。という考え方がある。これはある種の原則をあらわしている言葉なのだろう。
だけど、この言葉があるからといって何をしてもよくなるわけではない。それがまかり通るならば、うまく言い繕えればそれでいい、となってしまう。
これは迷惑ではない、と言い繕えればそれで済む、という考え方。
トラブルを起こしても罪に問われなければそれでいい、という考え方。
最近はこういうことをいい年した大人が堂々とやるようになった。
一部の宗教団体はその先駆者だったのかもしれない。
他人に迷惑をかけない限り何をしてもいい、とは
(ただし本人に良心があって、やることの責任について考えることができるのならば)ということだろうか。
本当はこういうただし書きや制限があるのかもしれない。
言葉や理屈だけ一人歩きすると大変なことが起きる。言葉が軽すぎる。何でも当たり前にあるわけではない。できた理由というものがある。
でも良心って何なのよ。どうやって育てるのか。
自分の家庭内の問題を整理しようと考えているが、どこかにゴールはあるのか。
夢の話といい、自分や他人を粗末にしすぎではないか。自分といってもエゴのことではなく。