今日も寒い。
鼻がむずむずする。
今年もついにきた。今年は強力だという。ますますマスクが離せなくなる。
引き続き本(*)を読む。少しずつ読む。
*:「潜伏キリシタンは何を信じていたのか」(宮崎賢太郎著 角川学芸出版 電子書籍版)
武士層の人間は武運長久のためにキリスト教を信じたそうだ。
時は戦国時代。生きるか死ぬかの状況ではそういうものが切実に必要だったのかもしれない。
ただその場合、その人がそれまで信じてきた戦の神(八幡大菩薩や摩利支天など)がキリスト教の神や聖人に取って変わられただけだった。
このような話は『イエズス会士日本通信』、『イエズス会日本年報』、フロイスの『日本史』などに多数みいだすことができる。宣教師たちは、キリシタンに改宗した武士たちのこのような行為を、なんの疑いもなく熱心なキリシタン信仰の表現と理解したことであろうが、それらはキリシタン伝来以前の日本の伝統的な呪術的信仰が、新しいキリシタン風の衣をまとっただけで、旧来の呪術的、現世利益的信仰の中身にはなんら変わりはなかったといえよう。
(60ページ)
お守りに弾が当たって本人は無傷だったとかいう、戦場でよくある話がここでも出てくる。
そういう話が恐ろしいのはその話が独り歩きしてあちこちに影響をおよぼし始めてしまうことだ。
そのエピソードが起きた瞬間のその本人にとってはそうだったかもしれない。
ただ、同じ現象は2度起きることはない。だから、これをつけていれば大丈夫とかあらかじめ言うことはできない。
効果があった(過去形)と感じるのはその瞬間の本人だけだ。
それをあとからその事を特別視して、それがさも普遍的なことのように語り始めると危険だ。
そういうエピソードを利用して(作り出して)、他人のふんどしで相撲をとろうとする、他人の手柄を横取りしようとする奴らのたちの悪さ有害さ。
それらの出来事は語っているお前らには何の関係もない。当人にとってすら過去の出来事だ。
偶像化して思考停止する・させる。権威化して他人を支配しようとする。これらはそのことにつながってくる。
かつて私のまわりにいたのもそういう人間(の心の働き)だったのだろうか。
そういうことをすることは、個人に実際に起きた出来事を冒涜することにつながるのでは。そんな気すらする。
本に書かれていることで、まただいぶん整理が進んだ。
それにしても、イエズス会ってエリート集団だったはず。何故そのような動きをいさめなかったのだろうか。
当時はそういうことにおおらかだったのだろうか? 合理的・批判的なんて考え方はなかった? あったとしても聖書やキリスト教にそれを向けるなんてもっての他だった?
ただ現代の自分から見ると、勢力を広げられれば後の事はどうでもいい、という自分たちの利益のみを考える無責任な姿勢が、のちのち様々なトラブルを生んでいるように見える。
で、こういうことを考えている理由って何でだったっけ。
自分のまわりにいた人たち。母親や母親の入信してた団体の人間。彼らのこと:
他人に迷惑をかけて平気な顔をしているように見えたこと。
訳のわからないことを当然のように言い、内容がコロコロ変わること。
そしてそれらについてほとんど自覚がなさそうなこと。
活動を一生懸命やってかえって不幸になっているようにみえること。
痛みを伴って見たこれらのことに対して答えを出さないといけない。
これを時々思い出す。そこに戻る。
そんなの人それぞれだって? 当人たちがよければそれでいいって? 以前はそう思っていたけれど、今はそういうのは大人のとる態度じゃないと思う。無責任ってやつだ。
そんなことを考えた。少し読んだだけでお腹いっぱいだ。