曇り。また寒い。
ニュースで花粉が飛散し始めたとのこと。
今年もついに来た。
もっとも実際には1月の下旬から少しムズムズしてたが。
ますますマスクが手放せない。
今日もたくさん夢を見た。おおかた忘れてしまったが、荒唐無稽なものでなく、両親ともめるなど、日々のこまごましたものが多かった気がする。
また考える。最近読んでいる本(*)のこと。
*:「潜伏キリシタンは何を信じていたのか」(宮崎賢太郎著 角川学芸出版 電子書籍版)
この本のいいところは生きている人間の姿があるところだ。けっしてキリシタンは立派だったとかそういう話にしてない。
今思うとそういった”立派”な話はほとんど宣伝というかプロパガンダだった。そういったものは平気で現実を捻じ曲げてくる。自分に都合の良い歴史に作り変えてしまう。というかそういう作法だった。これまで本に書いてあることを真に受けすぎてきたようだ。
伝来したキリスト教は時代が下るにつれ、日本古来からある祖先崇拝のほうにどんどん寄っていってしまった。日本人はくそ真面目に教えられたことを守るのかと思ったがそうでもなかった。
思えば仏教もそうだった。もともと仏教には先祖崇拝なんて考え方はなかった。土着のものの力はすごい。
生きている人間が見える。人間は自分勝手だ。仏教もキリスト教も地獄の話をして無理やり信じさせようとしたところがある。でもうまくいかない。
何故なのだろう。・・・いやそれが人間だった。人間は自分勝手だ。命令通りに動くロボットではなかった。それが人間だった。そのことにいいも悪いもなかった。
これまで自分は信仰を強制される世界に生きてきた。今は違っても少なくとも子どものころはそうだった。これまでさんざん書いた。それでそういう考え方が無意識のうちに身についていた。
だから信仰がなく自分勝手なのは”いけないこと”で本来はそうではない、と無自覚に思っていたらしい。
だけどそうではなかった。自分勝手でわがままなのが人間の本来の在りかただったのだ。それはけっしていい悪いの話ではなく、そこが本来のスタート地点だった。
そこからはじめないと何も成り立たない。そのことに何十年もかかってやっと気づいた。
だから、人間はなぜ自分勝手なのか、と問われたら、それは生きているからだ、とでもこたえるしかない。
あと気づいたのは習慣の力の強さだ。日本人は特にそうらしい。訳が分からないけれどもこれまでもやってきたから守る。そうしないと罰が当たる、というような。
伝統的なものを守る。いいものならいいが、悪いものもある。部や学校の伝統だから、とかそういうものだ。
そのこと自体に特に意味はなかったのか。続いていること自体に何か意味があるような気がしていたのだが。そうでもなかった。
そんなことを思った。掘り下げないと何もわからない。