晴れ。今日も寒い。
携帯などの機器がシャットダウンするレベル。
こんなに低温に弱いとは思わなかった。
不具合が出るのはせめて気温がマイナスになってからにしてくれ。
今日も最近読んでいる本(*)について考える。
*:「潜伏キリシタンは何を信じていたのか」(宮崎賢太郎著 角川学芸出版 電子書籍版)
昨日のブログでも書いたけれども、日本にやってきた宣教師(の一部)はまず支配者層を取り込んで、そこから領民に信者を増やしていく方針をとっていた。
その記述について漠然とした違和感があった。
・・・これってかなり露骨な侵略行為じゃないか? そこに思い至る。
学生時代、世界史や日本史で習ったときは「ふーん」くらいの感想だったけれども、これは結構深刻な状況だったのではないだろうか。
そのことに今まで気づかなかった。ということは宗教や(宗教に関連した)歴史的な出来事に対して、かなり偏ったバイアスをかけられてきたということかもしれない。いったいどのレベルでそういう教育がなされていたのだろうか。
素晴らしい、とか立派だとか、信仰のためなら許される、人間の進歩のためには必要だった、とか。そのあたりの思い込み。うちは特殊なのかもしれないが。
9.11のときもイラクやアフガニスタンに攻め込むアメリカが自身のことを”十字軍”だとなぞらえて、あちこちから非難された。
十字軍は今ではキリスト教の世界でも”黒歴史”扱いらしい。行きがけの駄賃的な略奪と侵略。
侵略や騒ぎがあればそのことによって被害を受けた人間が必ず存在する。彼らは歴史の舞台には出てこない。
やっぱり、宗教や信仰には暴力を正当化する何かがあるらしい。
でも、何よりも自分が驚いたのは、これまでそういった偏った思い込みを持っていたことにまったく気づかなかったことだ。何かが特別扱いされて当然だという思い込み。
それに学校で習った歴史と自分自身の生活との間にはっきりとしたつながりがあることに無自覚だったことも驚いた。歴史なんて試験が終わればそれで終了で、あとは趣味の問題くらいに思っていた。
世界史は(日本史も)かなり血みどろなおぞましい話だったのだな。そしてその世界は具体的に今と地続きになっていること。生々しい人間の活動。
だけど、たとえ世界がそういう風にできているとしても、目の前がドロドロになるのはごめんだな。