雨。雪混じり。
今日もたくさん夢を見た。そして忘れた。
買い出しに行く。昼間なのに電車はかなりの混雑だ。
観光客らしき団体も多い。
ホームセンターに入る。風呂掃除用のスポンジを探す。いくら探しても自分が使っているものは見当たらない。自分が使っているメーカーのは取り扱いがないのか。と思ったらあった。新しいデザインになっている。どうりで見つからないわけだ。今度のやつは使いにくそう。別のメーカーのものを買う。
最近は何故かデザインが変更になると機能と質が落ちるものが多い気がする。コスト削減のためだろうか。原材料が高騰している? いつも使っているものは買いだめしておいたほうがいいのかも。
レジでポイントがどーのこーの言われたがよくわからなかった。あとで結構なポイントがたまっていたらしいことに気づく。お得になるはずが混乱して買い物のハードルが上がっただけだ。レジのおばちゃんも若干混乱気味だった。
以上”今日の変化についていけないこと”でした。
歩きながら考える。最近読んでいる本(*)について
*:「潜伏キリシタンは何を信じていたのか」(宮崎賢太郎著 角川学芸出版 電子版)
本によると江戸時代に殉教した信者は、信仰のためというより、親切にしてもらった宣教師は裏切れないという思いで、殉教したという。それは信仰ではなく日本古来からある”報恩”という考え方だ。
また潜伏期間も先祖がやってきたものを守り通す、というモチベーションで行事を行い続けたという。これも日本古来からの考え方に依っただけで、けっして信仰内容を理解した上でではなかった。
それを信仰を持ち守り通した素晴らしい話というわけにはいかない。
それで考える。自分の親の入信していた団体の思い出。彼らのやっていたことが、この本の考え方でだいぶん理解できた。
彼らの言っていることは支離滅裂に聞こえた。それなのに彼らはそれを守り続けた。それは報恩だったのだ。お世話になった人たちに逆らってはいけないという考え方。確かに子どものころからそういうことを母から言われ続けてきた。
でもそのせいで、トラブルが起きても改善できない。隣人や家族がカモにされる。
団体の上のほうはそんな恩義なんて考え方で動いているのではない。外国の団体ならなおさらだ。日本古来の考え方で動いているのに模範的な信者だと勘違いされている。
だからこの報恩的な考え方はいったんわきに置いておかなければならない。
なぜこんなことを考えたのだろう。彼らの言っている内容と考えていること行っていることに明らかな乖離がある。それは何なのかということだ。
それとどこかで関係しているのかもしれないが、意見を言う・抗議をするなど、まわりをざわつかせること自体を悪いことだと思っている節がある。セラピーの側の人間ですらそうだった。このことも問題を悪化させているのでは。日本(の一部)だけで通用する何かのせい。
皆がそういう考え方で回っているのなら、そこからはみ出てしまった人間は居場所がない。
また整理できた。問題を腑分けして整理するのは本当に大変だ。
さらに考える。最近加速度的に身体にガタが来ている。齢を取ると目は近くなるし耳は遠くなる。それは本当だった。それにしてもいくらなんでも早すぎないか。
身体のどこかに障害を抱えている人間は老化の進行が早いという。知的障害持ちだった姉もそう言われていた。もっとも姉は老化が来る前に亡くなってしまったが。
自分もそうなのだろうか。
病院に通ったりセラピーを受けたりと、何とか”普通”に近づこうと努力してきたけれど、それよりも身体にガタが来るスピードのほうがはるかに速かった。
ということは生き物としてのピークはもう過ぎてしまったのか。ショックだ。
こうなったら、人間だろうが制度だろうが道具だろうが頼れるものには何でも頼ったほうがいい。
これまでそういったことに罪悪感があった。家庭環境的な理由もあってなるべくまわりに迷惑をかけないようにする必要があった。だけど、もうまわりにケアが必要な人間はいない。両親は高齢だが元気だ。自分が気張る必要は(とりあえずは)ない。
具体的に何かに頼る、というわけではないが、そういう気持ちでいることにする。
ただ、年老いても知恵だけは(少しずつだが)成長しているようだ。そこはありがたい。
そんなことを考えて帰る。どこも人多すぎで疲れる。
今は受験シーズン真っ盛り。それを他人事として見る。こっちはもういい齢したおっさんになってしまった。受験なんてはるかかなたの出来事だ。