korenannan’s blog

関東地方某県に住んでいます。日々思ったことを書きます。時々放ったらかしにして期間が空くことがあります

知りたかったことは、それを知るまでわからない。具体的で実践的な知識

 晴れ。

 

 スッキリしない。

 

 天気予報も外れているのか当たっているのかよくわからない。

 

 天気予報が3時間単位・エリア単位で出しているから、気になっているだけだと思うが。

 

 

 

      夢を見た

 目が覚める。8時34分。だが隣の時計を見るとまだ8時半だ。

 

 時計を直さないと、と思う。(終わり)

 

  

     思ったこと

 目が覚める。ややこしい夢だ。まだ6時前。

 

 

 

 最初だけ読んで挫折した本を、本棚から引っ張り出してきて読む。

 

 「『知』の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用」(アラン・ソーカル/ジャン・ブリクモン著 田崎晴朗/大野克嗣/堀茂樹訳 岩波現代文庫)

 

 挫折した原因は話の前提になっているポストモダン思想がさっぱりわからなかったことだ。

 

 知識も理解もない。ドゥルーズとかイリガライなんて人名はうっすらとどこかで聞いたことがある程度だし。

 

 このポストモダン思想が出てくる以前の思想や背景がわかっていないと、どうにもならない。

 

 そこを押さえることができて、はじめてこれがすばらしいのか(あるいはデタラメなのか)判断がつく。そういうことらしい。

 

 それだけはなんとかわかった。

 

 この著者がのべたいことはエピローグによると

 

 われわれが扱いたいのは人文系と社会科学に強い影響を与えたポストモダニズムの一部の知的な側面だけなのだ。つまり、曖昧な言説で人を幻惑すること。現代科学への懐疑的傾向と結びついた認識的相対主義、正しいか誤っているかを問わない主観的な信念への過剰な関心、議論しているはずの事実よりも言説や言語を重んじる(あるいは、よりひどい場合には、事実が存在するとか事実について語ることができるという考えそのものを拒否する)傾向、などである。

(270~271ページ)

 

 一部の人間が、言葉を好き勝手に使いすぎ、言葉遊びが過ぎる。ということだろうか。

 

 著者は科学者なので、そういった言葉遊びで滅茶苦茶にされるのが我慢できなかったらしい。

 

 

 これを回避するための対策は、

 

 ・自分の理解できている言葉を使いましょう。格好いいからといって、よくわからない言葉を使ってはいけません。

 

 ・何でも疑えばいいってものではない。しっかりと見れば、ちゃんと意味があるものも多い。

 

 ・わかりにくいからといってそれがすべて深遠なものではない。

 

 ・同じ言葉を使っているからといって、別のジャンルにそのままあてはめてはいけません。そのジャンルではそのジャンル特有の言葉の使われ方をしている。

 

 ・権威を振りかざしてくるものには注意しろ。

 

 ・曖昧は逃げ。

 

 

 などなどが示されている。

 

 ものすごい役に立ちそうな知識だ。まわりに謎発言をして他人を煙に巻いて、混乱している隙に自分の意向をねじ込んでくるやつがたくさんいて困っている。

 

 なるほど、こういうことが知りたかったのだと思う。

 

 肝心の具体的な内容には踏み込めなかったけれども。

 

 

 わからなくても、本の中を行ったり来たりしていれば、それなりに像を結んでくる。そういうことか。

 

 

 

 また思う。母と母の入信している教団。

 

 たとえ、個々人がいい人そうに見えても、あのような団体と縁を結んではいけなかった。

 

 団体になると個々人を越えた理屈で迫ってくる。そこは個人ではどうしようもない。

 

 だから、うちの父みたいにおべんちゃらを使いにいくと大変なことになる。

 

 

 そういうことだった。苦い教訓。

やっぱり嵐の中にいる。詩的な表現は便利?

 雨。

 

 梅雨入りしてしまった。

 

 また部屋干しに逆戻り。

 

 

 

     夢を見た

 自宅にいる。早朝だ。

 

 学校にいかなければならない。

 

 空は曇っている。これから雨が降る予報。

 

 父は出掛けるという。相変わらず家庭内のことは興味無さそう。

 

 バイクで学校まで行くので雨の装備が必要。

 

 レインウェアを着る。荷物も対策しないと。

 

 バックパックはただの布製。持っていたのってこんな安物だったっけ。

 

 テキストだけ濡れないようにビニール袋でくるむ。むしろこれさえ濡れなければあとはどうでもいい。

 

 そう思ったらずいぶん楽になった。

 

 手袋を探す。メッシュのでいいか。防水のはなかっただろうか。(終わり)

 

 

 

     思ったこと

 目が覚める。雨でもバイクで出掛けようとするのが素敵。バイク馬鹿だ。

 

 まあ現実世界では原付しか乗ったことないけど。

 

 

 また思い出す。やや閲覧注意。

 

 母親とあの信者。実際に迷惑をかけてもそうじゃない、誤解だと言い張る。

 

 実際に相手に迷惑がかかっているのに誤解ってなんだよ。

 

 そういう考え方もあるし、こういう考え方もある、的なものが行きすぎた結果なのだろうか。これって相対主義って言うのか?

 

 実際に迷惑がかかったりしている場面で、そのことを否定するように使うのはおかしい。あくまで議論のうちだけにしないと。

 

 相対主義は理屈の世界の中だけにしておいたほうがいい?

 

 まあ、それ以前にごまかしてんじゃねーよ、と説教たれなければいけないレベルの話だろう。しつけの問題。大きな大人相手にそれができるか。

 

 これと似たものに、ポジティブに考えろ、的なことを言われていたことを思い出す。

 

 これもよくよく考えてみると、文句を言うな、こっちの都合のいいように考えろ、ということだった。

 

 そういうことだった。意味合いを微妙にずらしてくる。

 

 立派そうに聞こえるが実はものすごく自分勝手なことを言っている。

 

 さらにたちが悪いのは、彼らもこれで騙されている、ということだ。そういうシステムに組み込まれている。

 

 自分で言っているわけではなく、何かの権威がそう言っている、それで自分の責任にならなくてすむ。

 

 そういうからくりか。

 

 立派そうに聞こえる言葉を使って間接的にコントロールする。

 

 善人やまとものポーズをとるのが病的にうまい。だけどそれはただのポーズだ。

 

 

 何かを信じようが、何かに所属しようが、何でもやってよくなるわけではない。お前はそれでいいのか? ということが常についてまわって消えることはない。

 

 でも、この、それでいいのか? と考えることを強いられるのは、マイノリティの側だけだ。

 

 マジョリティはそんなこと考えない。皆やっているし、自分一人で相手に対面しているわけではないし。

 

 当事者なのに傍観者のスタンスがとれる。自分がやったことで何が起きるかなんて考えなくてすむ。

 

 やられた側は考えるというよりも、もろにその影響を一人で受けることになるんだけれども。

 

 考えざるを得ない状況に追い込まれる。

 

 やられた結果、自分がしたことで相手に与えるかもしれない影響が怖くて動けなくなる。悪循環。

 

 

 そんなことを考えた。

 

 いまだに嵐の中にいる。抜け出てはいない。

 

 "嵐の中"という比喩的な表現は状況を的確にあらわせていいな。これが詩の力か。

 

 

 

本の中に他人の人生を見る

 かなりまとまった雨。

 

 このまま梅雨に突入か。

 

 それともまた晴れが来るのか。

 

 梅雨らしい梅雨か、あるいは晴れと雨を繰り返しているうちに何となく過ぎてしまうのか。

 

 

 

     思ったこと

 「エミリ・ブロンテ 神への叛逆」(ジル・ディックス・グナッシア著 中岡洋/芦澤久江共訳 彩流社)

 

をさらに読む。序章でもうお腹いっぱいだが、気を取り直して読み続ける。たまにはピリッとした気分になりたいし。

 

 

 エミリ・ブロンテが書いた詩の引用。

 

 おまえ[人間]に絶望が あろうはずはない

・・・・・・・・・・・・・・・・

 風は おまえが溜息を吐いているとき 溜息を吐き

 冬は 秋の葉が 散り敷くところ

 その悲しみを 雪にして 降らす

 

 だが 彼らは甦る そして彼らの運命から

 おまえの運命は 引き離されるはずはない (H.122,Ⅱ.1,10-14)

(92ページ)

 

 漠然と読んでいたら自然の賛歌かな、なんて勘違いしてしまいそうだ。

 

 だけどこれは、この世界のままならなさと、ままならないがこの世界に繋がれて自由になることができない絶望をあらわしているらしい。(それがこの本の著者の解釈?)

 

 選択肢がなく、この世界と運命を共にするしかないのだから、絶望などしても仕方がない、そんな贅沢は許されない、ということか。そして人生は続く。

 

 

 でも、この人は何でこんなことを書いたのだろう。そこが気になる。

 

 "何で"なんて言う人間にはわからないのかもしれないが。

 

 

 

 

すっかり夏。さらに歩く

 晴れ。

 

 もうすっかり夏の日差しだ。

 

 ニュースでは大雨の話がちらほら出てきた。

 

 

 

       思ったこと

 買い出しに行く。知らない駅で降りる。

 

 下町だ。開業前の銭湯の入り口でおじいちゃんがしゃべっている。

 

 のんびりした雰囲気。夏は歩くのが楽しい。

 

 駅前に来る。政党の宣伝カーが停まっていて、なにかを大声で訴えている。

 

 ウクライナのことらしい。戦争が長引いて世界各地に影響が出ていると言っている。

 

 そういえば、ウクライナアメリカなどが提供している兵器の代金は誰がどういった形で負担するのだろう。日本も負担させられたりするのだろうか。たぶんそうなのでは。

 

 線路沿いを歩く。下町らしく通りに植木のプランターが並べられている。とても静かで平和な感じ。

 

 川を渡る。東京の人工的な水辺は昔から大好きだ。

箱庭のような自然

 

 デパートの地下で家族から頼まれていた弁当を買う。

 

 ・・・なんだこの値段は。ここは比較的高い店なのだが以前の1.5倍くらいの値段になっている。

 

 いや、比較的安いエントリークラス?の値段の弁当がなくなってしまっただけか?

 

 それにしても高い。驚いた。これも戦争の影響だろうか。

 

 

 

 考える。世の中はままならないことや、偶然や運任せのことだらけだ。その中で何とか穏やかに生きていくために、お参りしたり神頼みしたりするのかもしれない。

 

 そのレベルの距離感。うちの母親みたいな宗教ガチ勢?は珍しいのでは? というか、なぜ信じたら何でも何とかなると思うのか。

 

 うまくいってラッキー、くらいがこの世の中に対する正しい姿勢なのかもしれない。

 

 それにしても、うちの中はままならないことやコントロール不可能なことが多すぎる。度を越えている。世の中の”普通”とは次元の違うレベルのようだ。

 

 本当に困っているときは神頼みしている場合じゃない。

 

 

 そんなことを思った。帰る。

 

 少し歩いただけでヘロヘロだ。これではいかん。でもことさらなことはしない。さらに歩くだけだ。

ひとりで世界と向き合う

 晴れ。

 

 今日も暑そうだ。

 

 身体が慣れる前に次の季節が来る。

 

 

 

      思ったこと

 「エミリ・ブロンテ 神への叛逆」(ジル・ディックス・グナッシア著 中岡洋/芦澤久江共訳 彩流社)

 

 をさらに読む。

 

 著者はエミリ・ブロンテやドストエフスキーなど一部の作家を「反有神論者」だという。

 

 無神論者ではないのか。どういう意味だろう。

 

 彼らにとって神とは当然のことながらキリスト教の神だった。

 

 そのキリスト教の神の救済を拒否したのが彼ららしい。

 

これらの話者は、いかなる神もいかなる信条も頼りとせず、自分たち自身の条件で自分たちの運命に向かい合いたいと願っている。

(20ページ)

 

 

 

 エミリ・ブロンテは子ども時代、二人の姉を亡くしている。

 

 極端な管理体制を持つ、聖職者の娘たちのための、非常に厳しい学校に送られて、自由奔放な家庭で育てられた彼女らは徹底的な処罰のターゲットにされた。

 

 そこで様々なひどい目に遭って、二人は危篤状態で家庭に戻されその後亡くなった。

 

 それをずっと見ていたことがその後の考え方や作風に影響を与えた。

 

 こんな内容のことがこの本の序章に書かれていた。

 

 

 当時はまだキリスト教の考え方が世界を当然のようにおおっている時代だ。この学校も当然そういう世界にある。

 

 その中でこういう体験をして、子どもの素朴さと詩人の直観で、"神(との契約)には人間を救う力はない"、そう思ったのではないだろうか。

 

 直観は理屈ではないので、いくら他人から何か言われてもそれは変わらなかっただろう。

 

 この瞬間から、ゴウゴウと風の吹きすさぶ荒野に彼女は一人で放り出されたのではないだろうか。そしてそこを一生彷徨うことになった。

 

 身を守る常識がなくなり、むき出しの自分と世界が直接向き合うような状態。それが詩人なのだろうか。

 

 そんな気がする。このことはとてもビリビリと響いた。ものすごくよかった。

 

 

 まだ序章だけれども既にお腹いっぱい。1章からは彼女の作品の分析が始まるのだが、正直どうでもよくなった。知りたいことは知れた。

 

 これが響くということは私もこんな感じなのだろうか。

 

 なんだかものすごくわかるよ。一人で放り出されて彷徨うのは嫌だけれども。

 

 でもそれは嫌だとか、望んだからとか、そういう風になんとかなることではない。