晴れ。
今日も暑そうだ。
身体が慣れる前に次の季節が来る。
思ったこと
「エミリ・ブロンテ 神への叛逆」(ジル・ディックス・グナッシア著 中岡洋/芦澤久江共訳 彩流社)
をさらに読む。
著者はエミリ・ブロンテやドストエフスキーなど一部の作家を「反有神論者」だという。
無神論者ではないのか。どういう意味だろう。
彼らにとって神とは当然のことながらキリスト教の神だった。
そのキリスト教の神の救済を拒否したのが彼ららしい。
これらの話者は、いかなる神もいかなる信条も頼りとせず、自分たち自身の条件で自分たちの運命に向かい合いたいと願っている。
(20ページ)
エミリ・ブロンテは子ども時代、二人の姉を亡くしている。
極端な管理体制を持つ、聖職者の娘たちのための、非常に厳しい学校に送られて、自由奔放な家庭で育てられた彼女らは徹底的な処罰のターゲットにされた。
そこで様々なひどい目に遭って、二人は危篤状態で家庭に戻されその後亡くなった。
それをずっと見ていたことがその後の考え方や作風に影響を与えた。
こんな内容のことがこの本の序章に書かれていた。
当時はまだキリスト教の考え方が世界を当然のようにおおっている時代だ。この学校も当然そういう世界にある。
その中でこういう体験をして、子どもの素朴さと詩人の直観で、"神(との契約)には人間を救う力はない"、そう思ったのではないだろうか。
直観は理屈ではないので、いくら他人から何か言われてもそれは変わらなかっただろう。
この瞬間から、ゴウゴウと風の吹きすさぶ荒野に彼女は一人で放り出されたのではないだろうか。そしてそこを一生彷徨うことになった。
身を守る常識がなくなり、むき出しの自分と世界が直接向き合うような状態。それが詩人なのだろうか。
そんな気がする。このことはとてもビリビリと響いた。ものすごくよかった。
まだ序章だけれども既にお腹いっぱい。1章からは彼女の作品の分析が始まるのだが、正直どうでもよくなった。知りたいことは知れた。
これが響くということは私もこんな感じなのだろうか。
なんだかものすごくわかるよ。一人で放り出されて彷徨うのは嫌だけれども。
でもそれは嫌だとか、望んだからとか、そういう風になんとかなることではない。