雨。
梅雨入りしてしまった。
また部屋干しに逆戻り。
夢を見た
自宅にいる。早朝だ。
学校にいかなければならない。
空は曇っている。これから雨が降る予報。
父は出掛けるという。相変わらず家庭内のことは興味無さそう。
バイクで学校まで行くので雨の装備が必要。
レインウェアを着る。荷物も対策しないと。
バックパックはただの布製。持っていたのってこんな安物だったっけ。
テキストだけ濡れないようにビニール袋でくるむ。むしろこれさえ濡れなければあとはどうでもいい。
そう思ったらずいぶん楽になった。
手袋を探す。メッシュのでいいか。防水のはなかっただろうか。(終わり)
思ったこと
目が覚める。雨でもバイクで出掛けようとするのが素敵。バイク馬鹿だ。
まあ現実世界では原付しか乗ったことないけど。
また思い出す。やや閲覧注意。
母親とあの信者。実際に迷惑をかけてもそうじゃない、誤解だと言い張る。
実際に相手に迷惑がかかっているのに誤解ってなんだよ。
そういう考え方もあるし、こういう考え方もある、的なものが行きすぎた結果なのだろうか。これって相対主義って言うのか?
実際に迷惑がかかったりしている場面で、そのことを否定するように使うのはおかしい。あくまで議論のうちだけにしないと。
相対主義は理屈の世界の中だけにしておいたほうがいい?
まあ、それ以前にごまかしてんじゃねーよ、と説教たれなければいけないレベルの話だろう。しつけの問題。大きな大人相手にそれができるか。
これと似たものに、ポジティブに考えろ、的なことを言われていたことを思い出す。
これもよくよく考えてみると、文句を言うな、こっちの都合のいいように考えろ、ということだった。
そういうことだった。意味合いを微妙にずらしてくる。
立派そうに聞こえるが実はものすごく自分勝手なことを言っている。
さらにたちが悪いのは、彼らもこれで騙されている、ということだ。そういうシステムに組み込まれている。
自分で言っているわけではなく、何かの権威がそう言っている、それで自分の責任にならなくてすむ。
そういうからくりか。
立派そうに聞こえる言葉を使って間接的にコントロールする。
善人やまとものポーズをとるのが病的にうまい。だけどそれはただのポーズだ。
何かを信じようが、何かに所属しようが、何でもやってよくなるわけではない。お前はそれでいいのか? ということが常についてまわって消えることはない。
でも、この、それでいいのか? と考えることを強いられるのは、マイノリティの側だけだ。
マジョリティはそんなこと考えない。皆やっているし、自分一人で相手に対面しているわけではないし。
当事者なのに傍観者のスタンスがとれる。自分がやったことで何が起きるかなんて考えなくてすむ。
やられた側は考えるというよりも、もろにその影響を一人で受けることになるんだけれども。
考えざるを得ない状況に追い込まれる。
やられた結果、自分がしたことで相手に与えるかもしれない影響が怖くて動けなくなる。悪循環。
そんなことを考えた。
いまだに嵐の中にいる。抜け出てはいない。
"嵐の中"という比喩的な表現は状況を的確にあらわせていいな。これが詩の力か。