晴れ。良い天気。
昨日は寒かった。都内ですら雪が降ったらしい。
とんでもないな、とニュースを見ながら思ったが初雪の時期は平年並みらしい。
あれ、去年もそんな感じだったっけ。記憶にないな。
去年がどうだったかなんて全く記憶にない。
それどころか今年オリンピックがあったことすら全く実感がない。
そうだったっけ?
「神学・政治論」(上・下 スピノザ著 吉田量彦訳 光文社古典新訳文庫)をさらに読む。
自分が損をしてまで契約を守る人間なんていないという。それが自然な状態だという。(私の理解はかなりおおざっぱです)
決まりは神聖なもので絶対守らなければいけない、とでも言うと思っていたのだが、意外だった。とても当たり前のことを言っている。
決まりを美化しすぎだったのか。それはとても危険なことだった。決まりが独り歩きしだすとろくなことがない。そういうことを言うやつが出るとたいてい死人が出る。当時もそういうことがあったのかもしれない。
思い出す。自分の話。うちの中で母の入信していた宗教団体に好き勝手された過去。どうして止められなかったのか、といまだに悔いが残る。
やっと理解ができた。身の危険を冒してまで行動する人間はいない。というか生き物としてはそういうことをするのは失格だった。
よく身を投げうって悪を止めた、とかそういう話があるが、あれは文字通り”有難い”話だった。悪い言い方をすれば生き物としての道理や安全装置が外れてしまったやべーやつだ。
それを当たり前にしてはいけなかった。それに、どちらかというと、そういう話をしたがるのはトラブルを正当化したがる悪い側の人間だった。他人に自己犠牲を要求して得をしようとするタイプの人間。他人の罪悪感を刺激してコントロールする。もしくは素朴すぎるタイプの人間。
素朴ということは悪くはないかもしれないけれども度が過ぎると愚かさにつながる。
愚かなこと自体は罪ではないのかもしれないが他人にすさまじい迷惑をかけることは事実だ。仏教でもすべてのトラブルのベースには愚かさ(無明)がある。そういう意味では躾や勉強は必要なのでは。なんでも自由というわけにはいかない。
他人に迷惑をかけなければ何をしていい、なんていう人もいるけれども、行動すれば他人になにがしかの影響が出たり迷惑をかけることは絶対にさけられない。
だから何かを絶対視したり美化してそれを貫き通してはいけない。ということだろうか。すべてはつながっている。そこから離れた理屈は危険。
などというようなことを考えて、自分の中にある罪悪感や記憶の居場所が見つかった。人間ができないことについて悔やんでもしかたがない。できないこと・限界って何よ、という話。
ただ、身の危険を冒すことはできないけれども、どこかで筋を通さなければいけない。
それと同時に自分はただの人間なのであまり厳しい生き方をすることもおかしい。他人の重荷は他人に背負わせておけ。