晴れ。
花粉がひどい。目がショボショボして鼻がむずむずする。
身体もだるい。
毎年思う。花粉てこんなにひどかったっけ。
季節ものはすべてこれだ。
夏が来ると去年もこんなに暑かったっけ、と毎年思っている。
いつも忘れてしまう。
覚えていればそれなりの心構えもできるのではないか。
少し考える。夏の暑さを忘れてしまうのは身体が冬の寒さに対処するために変化するためではないか。
変化することで対処している。結果として変化する前のことは忘れてしまう。
そういうことか。
でもどうにかならないかな、本当に。洗濯物を干しながら思う。寝る時も布団についた花粉のせいか鼻詰まりがひどい。
花粉症の薬を飲んで空気清浄機がフル回転している。
ウクライナでは戦闘が本格的になっている。常任理事国レベルの国が何か始めてしまったら誰にも止められない。そういう悪しき前例になるのではないか。
あれ?、そういうことはアメリカがすでにさんざんやっている。そこに気づかなかった。もう素人の自分にはよくわからない。あの国は自国の利益ばかり考えすぎてるのかもしれない。だからトラブルになるのでは。そしてやったことを正当化して他人を巻き込むのが病的にうまい。
最近読んだ本で思ったことは、”理屈なんてどうにでもなる”、だった。悪いことをしても立派な理屈を悪用してごまかすことはいくらでもできる。私のまわりにもそういう人間がいた。
だとすれば理屈を行動規範にするわけにはいかない。何がいいのだろう。
人間は死ぬのは嫌だ。死ぬことは避けられないけれども少なくとも他人にやられるのは嫌だ。空腹は嫌だ。不幸は嫌いで幸せがいい。そしてそれは自分も他人もそうだ。このあたりがよさそうだ。
言葉にしてしまえば当たり前のことだが、これを身につける(身体化というのか)のは大変な手間暇が必要らしい。自分もいまだによくわからないし、まわりもそれができていない人間がたくさんいる。
自分や他人を粗末に扱っている人間が多いことでそれがわかる。
まったくどうやったらいいのか。他人に迷惑をかけてはいけない、とか人には親切に、とか口で言うのとは少し違う気がする。というか真逆である気すらする。
言葉や理屈を覚えたりそれを口に出すことと、それを身につけることはまったく別のことだった。それをこの歳になるまでほとんどわからなかった。まったく今まで何をやってきたんだ。
それを自覚して言葉にできなければ克服することはできない。そういうことらしい。
そして言葉にするためには他者が必要だ。まともに話ができる他者。自分の利益のためにごまかさないで受け答えができる人間。
そして、自分の幸せの感覚をちゃんとつかんでいないと難しい。不快が当たり前になっていては難しい。不快が当たり前になっていると、他人に当然のように迷惑をかけて不快な気分にさせる。
これまでセラピーを受けたりして分かったことはこういうことだった。今になってやっと整理ができた。
自分はもういい歳したおっさんだ。この歳になると新しいことを始めるというよりは、これまでやったことのまとめに入る。収穫の時期だ。
たくさん何かをやった人はたくさん収穫するし(悪いことをした場合にはその報いが)、そうでない人間はそれなりだ。
自分はかなり”それなり”のほうかもしれない。でも自分自身を誰かと交換することはできない。自分は大金持ちでもないし戦争している国家元首でもない。自分自身に戻らないといけない。
具合が悪くなって”真面目”に治療したり考えた結果今の自分がいる。そう考えた場合、そんなに悪くない人生だなと思えるようになった。
そんなことを思った。