蒸し暑さが戻ってきた。
天気予報で台風や秋雨前線の話。
季節が確実に動いている。
前回のブログで、感情が動いているほうが気候の変化を細かく感じることができる、と書いた。
それは一見いいことのように思える。いやこの事自体は普通にいいことなんだけれども。
でもセンサーが鋭敏になったお陰で、親が入信している教団関係の情報が入ると、えげつないダメージを食らうことがわかった。
それで昨日は少しだけ寝込んだ。
現実世界のことなのに、ホラーゲームレベルの理不尽な環境。常識では説明できない。つまり”普通”を生きる他者との接点がない。
ダメージを受けないように鈍感になる・乖離する、というのは身体の生存するための機能だ。
それ自体はとても原始的で、自分らしく生きるとか、そういった次元のこととは無縁だ。
都合が悪いものはシャットダウンする。
ただ生きていけるようにする。ひどい環境でもそれなりに。自己実現とかそんなことではなく。
ただこの機能が働くと社会の中でかなり生きづらくなる。
これは正常な機能なのか、それとも障害なのか。
買い出しに行く。今日は親の都合で買い出しの日程がずれた。
親の都合と書いた。まわりの人間の都合だらけだな。自分がこれがしたいとかないのだろうか。
昔からこうだった気がする。進路を決めるときにも自分の意思が希薄だった。
なぜだろう。改めて歩きながら考えた。自分の本当にしたかったことは何だろう。
安全で静かな場所で休みたい。これが出てきた答えだった。
これ、学校でやることじゃないよな。それ以前の話だ。私は学校にいるべき人間ではなかったのか。
いるべきではない、というのは資格の問題ではなくて、それ以前にすることがある、それを済まさないと学校や進路の問題を考えることはできない、という意味だ。
なんだ、そういうことだったのか。夢の中でずっと学校をさ迷っているのも、こういうことだったのかもしれない。
教育や人間の成長にはいくつものレイヤーがあって、個々の人間の状況によって必要な段階が全く違うらしい。
ある人には軽くクリアできたり、当たり前だったりすることが、他の人にとっては、手に入れるのに大変な困難なことがある。
書いてしまえば当たり前のことだが、それを”我がこと”として認識できるまでが大変だった。
安全で静かな場所で休めるようになる。これは今でも必要なことだ。これをクリアしないといけないということか。
・・・どないせえっちゅーねん。全く。困ったな。
(この「どないせえちゅーねん」って正しい使い方なのだろうか。「どうしろっていうんだよ。大変すぎる」と言いたいのだが。関西弁のネイティブスピーカーでないのでわからない。クレオール語か何かみたいだ)
でも、おかげでやっと自分のいる地点と社会のつながりが少し見えた。
ボロボロになりながらだが、外に出るとそれなりに気分が晴れる。
久しぶりにみなとみらいを歩く。以前よりさらにおしゃれになって、まるで現実感がない。
高層ビルだらけでロープウェーまで走っている。そしてライブハウスと高級外車ディーラー。
人工物だらけ。熱でうなされたときに見る夢のよう。
でもこの環境を現実として生きている人たちもいる。その事が面白い。
タワーマンションに住んで高級外車に乗って。そんな人たち。
イベントに高級車に観光地。ここは人間の欲望だらけだ。
欲望を満足させるって一見いいことのようだけれど、そうでもないのかもしれない。
詐欺や痴漢、そういったものも欲望から起きる。
カワイイと思う気持ちも、カワイイ服を着るのも、カワイイ服装をジロジロ見ることも同じ欲の働きだ。それらを切り離すのはたぶん無理だ。
欲望はちゃんとコントロールしないといけない。
・・・って、あんた本当に考えるの好きだな。せっかく来てるのに、海を見ろよ。ロープウェー乗ろうよ。喫茶店でも入りなよ。
いや、見るだけでお腹いっぱいなんだけど。駅に降り立った時点で情報量の多さに圧倒されているし。
そんなことを思いながら歩いた。
自分の買い物をし(みなとみらいではない。近所のスーパー)、家族に頼まれたものを買って帰路につく。
大きな建物を見ると気分がいい。