晴れ。
蒸し暑く不快。
夏ってこんな感じだったっけ。
思い出せない。
思ったこと
また映画を観る。
自分はジャパニーズホラーゲームが好きなので今度もそのジャンルから。
今回観たのは「劇場版 零 ~ゼロ~」(安里麻里監督 大塚英志原作)
原案はコーエーテクモのゲーム。
原案のゲームシリーズはかなり怖かった。
まあ動画を見ただけなんだけど。怖すぎてプレイは無理だ。
サイレントヒルと違って舞台が日本のせいか、心理的な恐怖がかなり増す。
このゲームで「百合」というジャンルの存在を知った。日本独特のものだろうか。映画はその百合要素がかなり増している。
観る。やっぱりゲームに比べてうさんくさく感じる。ゲームのキャラクターと違って生身の人間がやると、その生身の部分の情報と設定がぶつかって不協和音を出す。
唐突に自分のうちの中の状況を思い出す。・・・うちの中のほうがよっぽどホラーじゃないか。
私なんて悪霊呼ばわりされていたこともあるし。これまでのブログでも書いた。
それとさっき気づいた生身の人間が出すストーリーとの不協和音。・・・なんか関係がありそうだ。
この不協和音を感じるお陰でおかしな情報を信じないですむのではないか。
生身の人間が出てこないゲームのほうが純粋に情報のみで構成されている。おかしな設定でも制作者の都合のみで動く世界が作れる。
だからより怖い。破綻を感じないですむ。そういうことだろうか。
母のいる教団も現実世界からかけ離れた自分達の都合のいい情報のみで構成されている。その世界の中だけでは破綻を感じないですむ(ように見える)。
実際には生身の人間が出す情報によって破綻が見え隠れしている。笑っているように見えて顔がひきつっている、目が笑っていない。いきなりストレスで暴れるけど本人にはその理由がわからない、などだ。
そうか情報のみで構成されている世界は恐ろしいのか。そしてそれでこの世界を説明することはできない。情報は穴だらけだ。
だから相手の言う理屈を鵜呑みにしてはいけない。外の世界からのフィードバックが効かなくなるからだ。
信じてしまえば情報にコントロールされてしまい、そこから抜け出せなくなる。他の情報が入ってこなくなる。
そもそもこの世界や人間には整合性なんて存在しない。あるとすれば理屈の世界だけで、それはかなり無理をしている。ありていに言えば嘘だ。
この世界に整合性がないのだったら、いくら合理的で立派な理屈を言われても、おかしいと思ったら「それがどうした」と突っぱねることが可能なのでは。
そういうことだろうか。
生身の身体を知覚することができればだまされずにすむ、ということか。
情報や言葉以外に参照できるものを持つ。
そんなことを思った。
・・・あの。映画の感想は?
模範的おっさんの感想。
女子のみの世界の独特の様式美。それもよかった。ただ、皆が集団催眠みたいに一気に同じ方向に行きそうで怖い。
映画を観ている間、ずっと自分の問題のことを考えていたからそれ以上はちょっと。
本当に自分のことしか考えていない。それもだまされないコツか。
うさんくさい、バッカじゃないの。と言えるから、飲み込まれずににこっちの世界に戻ってこれる。
映画の中でも中越典子が演じている役が最後に「どうでもいい」と言ってその場から出ていったのが印象に残った。
なんだか映画の内容と微妙にリンクしているな。
生身の世界が出す情報は大事。そしてそれは本来整合性がなくめちゃくちゃだ。
人間は誰かの都合通りにはならないし、なりきれるものではない。
だからたぶんお芝居にはお約束があるんだよ。